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今週のメッセージ2013年5月

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2013年5月26日 主日礼拝のメッセージ

「真理とは何か?」                      ヨハネによる福音書14:6
イエスは彼に言われた、                                             「わたしは道であり、真理であり、命である。だれでもわたしによらないでは、               父のみもとに行くことはできない。

真理と言う言葉について日本人は理解しがたい言葉だと思います。真理と言われるものが見当たらないからなんです。昔は天皇と言う絶対者(現人神)の名のもとに服従させられていた大日本帝国ですが、戦争に負けた今はそう言った存在がなくなりました。今では残念ながら、進化論を絶対論と信じている日本人にはなかなか理解できないようにされています。進化論とは全ての存在が意味無しで偶然に発生したと言う考えです。しかし、創造論というのがあり、創造者の意図により、すべての存在が意味有りの考え方です。簡単に申しますと、創造主なる神が居るか居ないかの違いです。

真理(truth)とは「絶対的に変わらず、揺らぐことのない定義、事象、思考」 と辞書にあります。                                                                            実在の神がある目的、考え、計画のもとにこの天地万物を創造し保っている。                  この事実を人間に証明するために イエスキリストがこの世に現れたのです。それまではユダヤ人預言者を通して言葉による神の啓示がありましたが、それが具現化され現実となったのです。それは旧約聖書(ユダヤ教の経典)によるメシア(すなわちキリスト)救世主の400にも及ぶ預言の言葉を全てそれに当てはまるイエスキリストになります。だからイエスキリストが真理になるのです。全66巻の聖書にはいろんな人が述べ1600年間にわたって書かれた書物が編集されていますが、一貫性があります。それは人類救済です。このままでは人間の霊魂が滅びに至るので、神の国の永遠の命が与えられるチャンスが得れる約束なのです。聖書は死後の行方を教えており、倫理道徳の為だけに書かれた書物では無いのです。イエスキリストはこのような信じられないような話を、事実として裏付ける根拠として実証されるために、この世に現れてくださったのです。

最近では、真理と言えばオウム真理教が世間を騒がしました。残念な事に真理と言う言葉が、汚されてしまいました。真理と言うとおかしな宗教みたいに連想されてしまうのですが、もともと聖書の中でイエスキリストが真理だと言います。神の存在、そして神をこの世に具現化した存在が神の御子であるイエスキリストです。

多くの人はイエスキリストが人間だと思っています。  答えはイエスキリストは人間の肉体を所有された神です。十字架に架かる為に肉体を所有された神なのです。                                私がまだ神を知らない子供の時、不思議に思いました。イエスキリストが十字架にかかって死んだのに何故、英雄的存在なんだろう?この人は一体何をして世界中の人々から賞賛されているのであろうかと意味不明でありました。そこを知りたいと思う時がありました。

ヨハネの福音書1:18                                                     「神を見たものは一人もいない、ただ父のふところにいる一人子なる神だけが、神を現したのである。」

またへブル人への手紙1:1~3                                               「神は、むかしは、預言者たちにより、いろいろな時に、いろいろな方法で、先祖たちに語られたが、この終りの時には、御子によって、わたしたちに語られたのである。神は御子を万物の相続者と定め、また、御子によって、もろもろの世界を造られた。
 御子は神の栄光の輝きであり、神の本質の真の姿であって、その力ある言葉をもって万物を保っておられる。そして罪のきよめのわざをなし終えてから、いと高き所にいます大能者の右に、座につかれたのである。」                                                                                                                                      目に見えない神がイエスキリストを通して神を現されたと言う事実が真理になります。 神さまは私たち人類に大きなチャンスを与えてくださいました。私たちの肉体の無くなった後、霊魂はなくなりませんが、その霊魂が父なる神のおられる神の国に永遠の命を持って招いてくださるというのです。そのチャンスが口約束だけでなく、神の御子が十字架で命を掛けた代償のゆえ、罪で汚れた私たちを買い戻してくださったのです。(理解をするには堕落した天使のことを知る必要があります。此処では省略します。)神は命をかけて私たちを愛しているということなのです。すなわち十字架の業は神の愛の現れなのです。これを通して神の愛を知るのです。この神の愛を知って、互いに愛し合いなさいというのが神の戒めになります。 神の愛を知ることによって、愛が大切なことだと悟り、人はそれを実行しようとするのです。(神の愛を知る方法は聖霊によります。)それは親が模範を示して子供を薫陶(悟す)するようなものです。最近の親は私も含めてだらしないので子供の模範になっていないですね。反省です。子供が正しく育つのは結局、親次第なんです。私たちの父なる神は愛の神なのです。だからこそ人間には神様の愛が必要なんですね。                                                                                                                                                     私たちの絶対者、真理である神は、愛を持って神の国を約束してくださったのです。その具現がイエスキリストで、父なる神のもとに行くであり、父なる神を現す真理であり、父なる神の永遠の命を約束してくださる方なのです。この事柄が聖書の中心です。このことを事実として受け止める人は幸いです。必ず人生が喜びに満たされます。生まれてきて良かったと言えるようになります。是非おすすめしたいと思います。

                                                                                                                         2013年5月19日 主日礼拝のメッセージ

「塩を持ち、互いに和らぎなさい」         マルコによる福音書9:50

「塩はよいものである。しかし、もしその塩の味がぬけたら、
何によってその味が取り戻されようか。
あなたがた自身の内に塩を持ちなさい。そして、互いに和らぎなさい。」   
塩
日本の風習に塩を巻いたり、塩を玄関に盛る事が
あります。嫌な客が来たなら、帰った後に塩を巻いて
二度と来るなと言って塩を巻くシーンをテレビドラマ
などで見たことがあると思います。これは、清めるため、
外部からの邪気を払うなどの意味があります。
塩は本来、食品防腐剤として使われるわけです。
干物や漬物などもそうです。
また、味付けるものとしても使われ、食材をより美味しくします。
ある美食家は、肉や魚でも本当にいい食材なら塩を少し付けるだけで
食材そのものの味を引き立てて大変美味しいと言います。
多くの人は塩を他人に向かって巻いて、寄せ付けないようにするわけですが、
イエス様は自分の内に塩を持ちなさい。塩で味付けされた良いものになりなさい
言われるのです。あなた自身の良さをより引き立てるのが塩の役目です。
塩を外に巻くのでは無く、自分の中に持ちなさいと言われるのです。
自身を腐らないようするのです。そして、自分を良い味つけとなって、
互いに和らぐための存在になりなさいという事です。
自分が腐らないとは、いつも聖霊によって神に愛されている事を知り、
自分が神に愛されている尊い宝物である事を悟り、
愛の大切さを忘れないことなのです。
そして、神の愛で味付けられた自身をもって平和を築きなさいということです。
他人を追い払うための塩ではなくて、自分を腐らせないように神の愛の効き目を保ち、
その味の効き目が平和を創り出す存在になりなさい。
                                                                    日本人文化の塩とは真逆みたいですね。
 

2013年5月12日 主日礼拝のメッセージ

「神の国では誰も誇れない」         エペソ人への手紙2:8~10

「あなたがたの救われたのは、実に、恵みにより、信仰によるのである。それはあなたがた
自身から出たものでは無く、神の贈り物である。決してあなたがたの功績ではない。それは、         誰も誇ることが無いためである。私たちは神の作品であって、良い行いをするように、              キリスト・イエスにあって造られたのである。神は私たちが良い行いをして日を過ごすようにと、
あらかじめ備えてくださったのである。」                                           
マラソン
悲しいことに、私たちは生まれると同時に
死ぬ事が定まります。スタートしたとたん、         死のゴールに向かっているのです。
これでは「生まれなかった方が良かった」         と言いたくなる人はたくさんおられると思          います。私も自分の劣等感に押しつぶさ          れそうになり、自分の存在を呪ってしまう         ことさえありました。
死というゴールに向かうマラソンランナーは、       はたして力強く走れるでしょうか?             当たり前の事ですが、人生と言うマラソン
                                 には希望が無いのです。
しかし、神様(創造主)は、私たちをこの世限りの存在として、無駄に造られたのでしょうか?         そうではありません。私たちのゴールに、死後の命を保証する約束をしてくださったのです。
それがイエスキリストによる永遠の命を与える霊魂の救いなのです。この救いをゴールと          知っている人と、ただ死だけをゴールだと思っている人の走り方は全く違ってくるのです。
神は私たちに永遠の命を約束しております。その約束を信じる事ができるように神の御子           イエスキリストを肉体に宿って遣わされたのです。歴史の事実として神の約束が現された           のです。(旧約聖書の預言と歴史の事実が証明)                                                                                                         多くの人は「そんなの死んでみなければわからないじゃないか」と言います。そのような人は
「当たるか当たらないか、わからないので宝くじを絶対に買わない」と言っている人だと言え
ます。(私は実はこういうタイプ)。しかし、くじに当たる希望を手にする人はその希望でワク
ワクするはずです。そのように人生を歩くことができるのです。もっとも、神の救いはくじでは
無く確実です。その値は無尽蔵の富だと聖書は記しています。神の国の永住権が私たちの          ゴールになるのです。                                                                                                                          そしてそれは私たちの功績で与えれるのでは無く、神の一方的な哀れみで信じるもの全てに        与えてくださいます。それは神の御前に誰も誇ることが無いように、すべての者が平等で公平         に愛し合うことができるようになるためです。神の救いの計画はシンプルかつ完璧です。
あなたも救いの約束をどうぞゴールにしてください、もし仮に嘘だとしても希望を信じて生きる         事はプラスになってもマイナスの要素は決してありません。その希望によって、人は正しい道         を歩き、神の良き作品として神の愛の内に完成していくのです。                                                                                                最後に一言、雨が降るか降らないかわからない天気であるなら、傘を持っていく人が賢明な
人ですね。 今、私は生まれてきて良かったと言える日々を歩いています。
神を信じて、儚い人生ではなくなったのです。     希望、価値ある人生と知ったのです。                                                                                                                

2013年5月5日 主日礼拝のメッセージ

「戒めを守れば神とともにある」                第1ヨハネの手紙3:24

「俺は、何があってもお前の見方だ!お前を愛している!」

そう言ってくれる友がいたら最高に素晴らしいです。嘘でもその言葉 嬉しいですよね。

そうイエス様こそ、そのお方です。天地創造主なる神が私の味方というなら、                   一体何を恐れることがあるでしょうか?

誰もキリストイエスにおけ001006る                  神の愛から離すことはできない                と聖書は言ってます。(ローマ書)

そう誰でもです。あなたもです。                この言葉を信じ受け入れる者には、            神の愛が成立しているのです。

その神の愛をどうして感じること               ができるでしょうか?

主が愛されたように、互いに愛し合                             いなさい、そうすればあなたは神の                         うちにおり、神があなたのうちにおられる事を知るようになるのです。

それは神から送られる聖霊様による働きです。

聖霊の働き、賜物はいろいろありますが、最も大切なのは神の愛を知ることです。               使徒パウロは明快に神の愛を求めなさいと語ります。                                 私は実際、悪霊を追い出したことも、病の癒しも、異言も、預言も聖書の書いてあるとおり           現実に体験しましたが、しかしそれらがすごい事ではありません。

が最も大切なのです。

その愛を求め実践することで、神の平安があなたを満たします。

愛することは、まず赦すことから始まります。主の導きがありますように・・・

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今週のメッセージ2013年4月

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2013年4月21日 主日礼拝のメッセージ

「更に父に愛されるために④」                          ヤコブへの手紙4:5~10

私たちは、知らず知らずのうちに高慢になってしまいます。自分は高慢でないと思っていて気づかないうちに人を傷つけていることがあるのです。それは自分を守ろうとするプライドが人を見下げたり、自分より上の人を妬んでしまうのです。人の上に立つ人ほどこのプライドは上げられていきます。知らず知らずのうちに自分の存在を大きなものにして、自分の存在価値を他人に要求してしまうのです。それが自分を神とする高慢さなのです。そしてそれは野心的な欲望なのです。恥ずかしい事ですが、私も周りの人から気づかされた事があります。それに気づいて自分を変えることができるなら幸いなのです。

ブランド小さい例えですが、ブランド物のカバンが好きな人は2種類の人がいます。そのブランドの商品が良いから買う人と、そのブランドの商品を持って優越感を得る為に買う人です。みなさんはどちらですか?

私は若い頃カーステレオを売る商売をしてたことがありますが、多くの人は安くてもケンウッドというメーカーのステレオを買っていきます。ケンウッドのマークがかっこいいからです。しかし同じ価格なら、こちらのほうが音がいいですよと言って勧めても、音の悪い安物のケンウッドを買っていきます。本質を求めないで、見栄を張る人が案外多いことに驚きます。

人は自分を誇示しようとします。これが罪に結びついていくのです。悪魔もこれを利用して神さまから反らそうとします。誇示は高慢になる要素になります。

弟子たちは自分がイエスさまの一番弟子だと言って誇示しようとしました。ところがイエス様は「自分を高くするものは低くされ、自分を低くするものは高められるであろう。」マタイ23:12 いちばん偉い人は仕える人でなければならないと、教えられました。これは、普遍的な真理です。”誰でも”とイエス様は言ってます。神さまを信じる人も信じない人も皆そうなのです。

更にヤコブは言います。「高ぶるものを退け、へりくだるものに恵みを給う」

神は私たちの中に住まわせた霊と魂をこよなく愛しておられます。妬むほど愛していると言われます。欲望から富を望む事により、悪魔の方に行ってしまう。そのような人を妬まれる神様です。しかし、高慢になり欲のゆえに神から離れるようなことがあっても神はそれでも悔い改めて自分の愚かさを知り、神のもとに立ち返るなら、赦して下さり、抱きしめて下さり、めぐみを賜ってくださるというのです。(放蕩息子の話ルカ15:11~)

常に高慢にならぬように自分を点検し、自分を低くして、その姿勢を忘れずに自分を管理できる人は更に神さまの恵が大きいことでしょう。

 

 

2013年4月21日 主日礼拝のメッセージ

「更に父に愛されるために③」                          マタイ25:31~46

どういう人が父に祝福されるのか?

時が来れば必ず全ての人は神の御前に裁きを受けます。ここで言う羊と山羊、右の者、左の者と分けられるとあります。驚くことに後述ではどちらも神を信じている、知っているという信者である事がわかります。

救いの約束は絶対的でイエスキ羊と山羊リストを信じる信仰によって約束の神の国を受け継ぎます。これは、聖書の絶対的な法則です。ですので、消して行いを基準にして救われるのではありません。

ここでは、神の愛と恵みを知り、救われた者はその戒めを守り、善行が伴う真実の信仰者だと明らかにされるということなのです。真実の信仰者は良き実が結ばれていくという結果になるのです。逆に口先で信仰告白をして救われたと信じていても、何もしていないのは偽物だという事になります。何もしないということは結局、何も分かっていないということになります。

救いの完成は肉体が無くなる寸前までわかりません。聖霊により、新しく生まれ変わらなければ実を結ぶことはできません。だから、聖霊は救いの証印 だと使徒パウロは言いました。聖霊によって実を結ぶ信仰者に変えられて行くのです。

神様は聖霊を求めるものには必ずお送りくださいます。聖霊なくしては本物になれないと言っても過言ではありません。

イエスを信じていると言いながら、それが真実なのか、偽りなのかが明らかにされる時が来るのです。父に祝福された人とは、神を愛する=神が愛した弱き小さい者を愛する者だと教えています。

神の戒めは「互いに愛し合いなさい。」です。

神を愛するために、人を愛するのでは無くて、                                       戒めを守る=人を愛することで、知らないうちに神を愛することになっているのです。

よく日曜日の礼拝を守る事で神を愛していると満足している方がおられますが、それは違います。本当の礼拝者は日々の生き様が神の戒めによって生きているかが大切なことなのです。ローマ12:1.2

日曜日の礼拝の後、平気で他人の悪口を言っている人は非常に残念です。

戒めを守り、実践する者が本物であり、父に祝福される人であるという事です。父の御心は良い実を収穫する事です。私たちが父の喜ばれる良い実を結ぼうとするなら、必要な栄養は与えられるのです。

たとえば、土地が、その上にたびたび降る雨を吸い込んで、                        耕す人々に役立つ作物を育てるなら、神の祝福にあずかる。     へブル人への手紙6;7
2013年4月14日 主日礼拝のメッセージ

「更に父に愛されるために②」                       ヨハネ福音書15:1~2&7

父なる神は農夫、ぶどうの木はイエスさま、その枝は神を信じる私たちです。                   ぶどう農夫である父は、実を結ぶことを望んでいます。そのことのために剪定したり、摘蕾、摘果、したり肥料を与えたり、虫から守るための消毒、手入れをされます。そのように私たちの実を結ぼうとするものに手入れをして良い実を結べるように手入れしてくださるのです。私たちが神の前に良い実を結ぼうとするなら必要なものを与えてくださるのです。

時には大きな実を見るために剪定もされます。父は立派な子を育てるために試練も与えられます。それは良い実を結ばせるためです。

いずれにせよ、私たちへの条件は一つです。戒めを守ろうとする心があるか無いかなのです。それは前回もお話したように「私が愛したように、互いに愛し合いなさい」と言う戒めです。

ようするに実を結ぼうとする決心です。

その戒めを守ろうとするものに更に聖霊様をお送りくださり、父の愛を更に知る事ができるようになるのです。人間には愛する力は無いのです。自分を愛するために人を愛せても、自分を愛するように人を愛する事はなかなかできないものです。そこで父の愛を聖霊によって知る事が必要になるのです。それだけでなく、この世での必要なものはなんでも与えてくださるのです。(ヨハネ福15:16.17Ⅰヨハネ3:21~24、5:14.15)極端な話ですが、名誉も富も愛し合うことに必要なら与えてくださるのです。それには父の戒めを守るという意思が大切です。

父の愛を更に体験されたい方は、愛を実践しましょう。愛することが難しいと思える人でも、まずは「愛さなければ」と言う心を大切にすることです。それが神さまの法になります。

良い実を結ぼうとする人に、なんでも求めるものは与えられる神の特別な恵があります。更に自分が父に愛されていることを実感できることでしょう。ご利益をいただくための宗教ではなくて、私たちが良い実を結ぶために父なる神様は与えてくださるのです。

皆さん是非実践してみてください。神秘的な賜物を求める人は多いですが、それよりもっと大切なことです。愛することによって神の愛が全うすると聖書は教えております。Ⅰヨハネ4:11

特に教会の中で妬んだり、いがみ合ったり、憎しみあっているなら、すぐさま心を変えましょう。そうすれば神さまの祝福が更に臨みます。神の祝福がありますように。

  

 

2013年4月7日 主日礼拝のメッセージ

「更に父に愛されるために①」                       ヨハネ福音書14:18~21    

神は、はじめから私たちを愛するために創造されました。私たちはイエスキリストを通して、その方をを「お父さん」と呼ぶことができるようになったのです。これは驚くべきことです。神様が私たちを子供としてくださると言うのです。天地創造主なる神が私たちをDSC07153_R父親として愛してくださるというのです。

父なる神に更に愛される秘訣がここにあります。

弟子であるピリポがイエス様に父を示して欲しいと言うのですが、イエス様は「私を見たのは父を見たのです」と言われました。ヨハネ福音書14:9私たちは月を夜空に見ていますが月の光は太陽の光です。太陽の光が反射して月を見ているわけです。月の形を見ていますがその光は太陽だと言う事です。それと同じようにイエス様を見ているという事は聖霊様を通して働かれる父を見ているということになるのです。これがキリスト教の三位一体です。

イエス様を愛する=父を愛する=戒めを守る=更に父に愛される

その戒めとはなんでしょう?イエス様は言われました。                                   「私が愛したようにあなたがたも愛し合いなさい」ヨハネ福音書15:12

日本語では「愛」という言葉は一つですが、聖書の書かれているギリシャ語では4種類の愛があります。肉親や兄弟家族の愛(ストルゲ)、男女の恋愛感情(エロス)、友情愛(フィリア)、神的愛(アガペ)、聖書の言う愛はアガペの愛です。他の愛は条件付きの愛です。自分の損得勘定で壊れる愛です。しかし、神の愛は無条件の愛で一方的にありのままの私たちを愛してくださっているということです。その愛を所有して愛し合いなさいという事です。

この手本を見せられたのがキリストの十字架の出来事なのです。自分の命を犠牲にしてまで私たちを生かしたい。それだけの価値が私たちの中にあると言う、愛を示してくださったのです。

そこでこの愛を知るために聖霊様が働かれるのです。聖霊によって愛を知り(体験経験)、その愛を実践して行くことで更に父は私たちを愛して、必要なものを与えて良き実を結ばせてくださるのです。

次週、更に深く伝えたいと思います。

 

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今週のメッセージ2013年3月

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2013年3月31日 復活節(イースター)礼拝のメッセージ

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黄泉帰り(蘇えり)        ヨハネによる福音書 6:35~40
イエス様は言われました。

 

「わたしの父のみこころは、子を見て信じる者が、
ことごとく永遠の命を得ることなのである。
そして、わたしはその人々を終りの日によみがえらせるであろう」

 

私が聖書を読んで最もびっくりしたのがこの復活でした。
明らかに神は人類に約束しておられるのです。

 

こんな不思議な約束が明快に記されていることがある事に驚嘆しました。

 

キリストは神でありながら肉所有の人として自らを十字架に掛り、私たちの罪の身代わりとしてご自分の肉体を捧げられました。神の私たちに対する一方的な愛であります。その愛は命をかけて償われたのです。その愛を受け入れるだけで私たちは死から命へと移されて神の前に義としてくださるのです。

 

こんな話が信じられますか?しかしこれが歴史上の事実だったのです。

 

驚くべきことにはヨハネの福音書5:29には、信じる者だけでなく善人も悪人も全ての人がよみがえると記しています。善人は命を受けるために蘇えり、悪人は裁かれるために蘇るとあります。神の最後の審判で古今東西全ての人が裁かれるというのです。しかし、イエスキリストを信じ、新しく生まれ変わった人は裁かれないというのです。

 

キリストはその初穂としてまず最初に蘇られました。朽ちる肉体から、朽ちない体に変わったと聖書は説明してます。(1コリ15章)。先にその約束の証拠をキリストを通して表してくださいました。500人あまりの人が復活のキリストと出会ったと証言しています。また、キリストの十字架にかけられた直後、神を信じて死んだ人が墓から蘇ったとも記されています。

 

信じる私たちにも、永遠の命、朽ちない体、神の御国が用意されているのです。どうしたらいただけるのでしょう。イエスキリストを通して神の国を求めるものに与えてくださいます。

 

主は言われます。「神の国は襲いかかるものよって奪われる」「求めよそうすれば与えられる」
そうあなたにも約束されている事なのです。求めるものには必ず与えられる永遠の命、神の御業に心から感謝いたしましょう。

 

 

 

2013年3月29日金曜日 受難日礼拝のメッセージ

29日の金曜日は受難日イエス様が十字架にお掛かりになった日です。

この映画は私も見ましたが、とにかくムチのシーンは酷い絵でした。ムチのシーンでは涙が止まらなくなりました。「そこまでして私たちを愛してくださるのですか・・・・」と感動で震えてきました。信じていない人にとってはただグロテクスな絵にしか見えないでしょうけれども、知っているものには神の愛と情熱がひしひしと伝わるシーンでした。今までにもキリストの映画はたくさんありましたが、これほどまでにリアルさが表現された映画はありませんでした。「パッション」題名の通り伝わってきました。

”キリストは何故十字架に” と言う疑問は私も小さい頃の疑問でした。全くワケがわかりません。多くの欧米の外国人が信じる理由が必ずあると思いましたが、近所に教えてくださる方はいませんでした。過去日本でも多くの殉教者がいました。特に長崎では多くの殉教者の血で染められました。そこまでして信じることを捨てない宗教って何?死んだら終わりじゃないの?これは気狂いとしか見えないです。

しかし、そこに命を捨ててまで信じれる真実があったのです。信じる向こうには永遠の命が約束されております。その事実を、イエス様が死ぬだけで終わったのでは無く、朽ちない体に蘇ったのです。聖書をとおして、それを事実として私たちに示してくださいました。それだけでなく、現代の私たちにも聖霊様をくださることによって保証してくださると言う事実を体験できるのです。

そう、これを読んでいるあなた!あなたのためにもイエス様は十字架で苦しんだのです。あなたの罪の身代わりとなって、苦しみを耐え忍ばれたのです。神の愛は自分の命を捨てるほどに私たちに臨んでいるのです。これを信じる人は幸いです。神の国で永遠の命を受け取ることができるのです。 心からお勧めします。

 

2013年3月24日主日礼拝のメッセージ

 

シュロノ葉棕櫚の聖日           マタイによる福音書21:5~11

「ドン・キホーテ!?」

今日から受難週に入り金曜日は受難日(キリストの十字架の日)、そして31日の日曜日にはキリストの復活祭(イースター)です。一週間前である今日はイエスキリストエルサレム入場の日、シュロの葉(左の写真)を引き詰めた道をイエス様が子ろばに乗って入場されたのです。

これは旧約聖書ゼカリヤ書9:9で出てくる預言の成就です。イエス様は入場するとき群衆が讚美する中、入場されます。これもまた詩篇118:22~27の成就なのです。

聖書によると(エペソ書1章)神様の御業は、万物が出来る前からキリストのあってすべて計画されていました。予言の成就とは計画が実施されたことなのです。聖書の「預言」というのは、「予言」ではありません。また当たる当たらないの占いでもありません。神様の計画予定が預言者を通して小出しに教えられているのです。極論を言えばこの世や人類がどうなるか神は既に決めておられるのです。子ろば、シュロの葉、群衆の賛美も、決められた計画であってその事がらがイエスをキリスト(=メシア=救世主)として証明する証拠になるのです。旧約聖書にはイエスをキリストとして証明する箇所は400箇所以上もあります。

しかし群衆は、イエスがメシア(キリスト)であって、十字架に掛かりに行くなど誰も思っていなかったはずです。逆にモーセのようにイエスラエルをローマ帝国の支配から逃れ、復興されると期待したのでしょう。群衆はイエス様の数ある奇跡のゆえに神の遣わされた指導者や預言者と見ていたのです。

普通、戦いに勇ましく行くなら、馬にまたがるシーンを想像するのですが、神の計画はロバだったです。人の生活道具として役立つ平和のロバ、それもまだ子どもで人に使われたことのないロバなのです。神は戦いで勝利を納めるために馬にまたがらず、敢えてロバで平和の救いを達成する為に入場されたのです。群衆はそのことに全く気付かず、イエス様のエルサレム入場に神を褒め称えたのです。弟子たちでさえわからなかったので、仕方ないです。この後、この群衆は「イエスを十字架につけよ」と豹変するのです。群集心理とは恐ろしいものですね。悪魔がこれを用いて人をコントロールするわけです。

群衆は本当の意味を知らずに讚美しており、1000年前(今から3000年前)の預言が成就しています。

詩篇の118:23には「これは主のなさったことだ。私たちの目には不思議なことである」とあります。

今私たちは過去の結果が一望できるので、神の摂理の不思議さにただ驚きなのがわかりますがこの時は、誰も知らずに神の計画はイエス様を通して実行されていたのです。キリストの十字架の意味は知る人は未だに少ないのが事実ですが、この事実を知れば誰でも、イエス様を信じるなと言っても信じるでしょうね。そこは理屈でなくて聖霊差の働きなんですね。

私たちもいろんなところで愚かな様に思えたり、困難や艱難、苦難いろんな問題が押し寄せてきます。しかし、そこに神の計画や摂理が必ずあると信じれるなら、私たちはすべてクリアーできるはずなのです。ロバにまたがったイエス様は神の愛を現すための勇者なのです。受難に向かうロバのイエス様は真の勝利者なのです。「魂の命を獲得するために、肉の命を犠牲にする。」神の愛なのです。

肉の命が無くなっても魂を活かすことのできる神様の愛に全てを委ね、人の目からは愚かで不思議ですが、完璧である神に全てを委ねたいとあらためて思わされるシーンです。

 

 

 

 

2013年3月17日主日礼拝のメッセージ

たつおの写真 

信仰とは神の国の先取りである。    

                                             ルカによる福音書 17:20~21

主は私たちに祈り方をおしえてくださいました。
「御国を來せてください、神様の御心が天にあったように地上にもそうしてください」マタイ6:10
この祈りは、私たちがこの地上に居ながらにして、神の国の支配が臨むようにと願いなさいという事です。

 

この地上は神の国ではなく、悪魔の支配する世界だと聖書は断言しており、この中に私たちは知らず知らずに悪魔の住むこの世に生きているのです。その中で神が与える約束をイエスキリストを通して受ける事ができるようにしてくださったのです。その約束とは、神の子とされ、神の国の財産相続権が与えられ永遠の命を保証される約束です。これはおとぎ話のような約束ですが、これを事実として受け取る事ができるように神は求めるものに聖霊を保証として送ってくださるのです。

 

いわば、この世は悪魔と悪霊たち、神に逆らったアダムとエバの罪を背負った私たちが閉じ込められた刑務所のような場所です。私たちは無期懲役を架せられた囚人のようなものなのですが、この刑務所から神の国に移されるという約束が与えられたのです。

 

無期懲役で死を待つだけの人生に、永遠に生きる命をいただけるという恵が現れたのです。死を持って裁かれるべき私たちの身代わりとして死んでくださったイエスキリストを信じればそれでいいというのです。
この確信を得ることのできる方法が聖霊様を祈り求めることです。この聖霊様によって神の国の保障として
送ってくださるのです。これを事実として今現在も体験できるのです。すごい事なのです。
エペソ人手紙1:14

 

主イエス様はこう語られました。「神の国は、実にあなたがたのただ中にあるのだ」ルカ17:21

 

私は小学校の時、遠足が非常に好きで、勉強から解放されるだけでなく、バスに乗ったり、お弁当を食べたり、おやつを食べたりと、前日にはワクワクして夜も眠れないほどでした。おやつは一人300円までと先生に言われて、買いに行く時の嬉しさと来たら最高です。まだ遠足に行ってないのにウキウキなんですね。
バナナはおやつかどうかなんて友達と論争しておりました事が懐かしいです。(私的にはバナナはお弁当箱に入れたらOK)このようにまだ遠足に行ってないけれどウキウキで準備するように、神の国の約束をウキウキで待ち望み、そのために神の国で味合うおやつを準備するようなワクワク感なのです。

 

この、状態を保つことが神の国の先取りだということです。

 

信仰は簡単なんです!遠足に行く子供のように素直になればいいんです。
そうすれば、人生が素晴らしくなってくるのです。

 

希望は失望に終わることはないと、確信できるのです。

 

 

2013年3月10日主日礼拝のメッセージ

愛は恐れをとり除く                            ヨハネ第1の手紙4:13~21

神から愛されている確信は、聖霊からの賜物です。

人間自身の考えではけして神の愛を知ることができないんです。

イエスキリストの十字架を通して神の愛を知ることができますが、

いくら説明を受けても理屈では、こんなこと理解できないんです。

そこで神様にこの聖霊を求める事が必要になります。聖霊によってのみ、神の愛を知る(体験)わけです。

①神は愛である。 ②神が造った人類を愛している ③私たちが互に愛する事で神の愛が全うされる。

この3つの事柄が私たちの内に現れます。

この神の愛の手本を具現的に示されたのがイエス様です。

「友のために命を捨てること。これ以上大きな愛は無い」と語られました。

私たちがイエス様に習って生きる事を示されたのです。

多くの場合、人はどれだけのことをしたのかその功績を見て相対的に判断されます。

しかし、神様は私たちがどれだけ愛したのかと言う事で本物かどうかを見分けられるお方なのです。

神の愛を知ったものは、誰にも裁かれることのない全く別の次元に移されます。

ですから、完全な神の愛である赦しの中にあるものは誰にも裁かれずに平安の中にあるのです。

誰がどう言おうとも神に愛されたものは、誰にも、恐ることなく大胆に強く生きる事が

神の愛の中にあって可能になります。

要するに、創造主である全知全能の神様が味方になってくださった事を知るのです。

特に日本人は霊的に恐るているので、先祖を崇拝します。これによって呪縛される事が多いんです。

これは愛の仕業でないことが明白なのですが、知らぬ間にその虜になってしまうのです。

それだけではありません、社会の中でもパワハラとか体罰等に恐れて我慢している人はたくさんいます。

そのような中で恐れている私たちを強くしてくださるのは、神の愛だけです。

この世で勝つのは誰か?完全な神の愛の中にあるものです。

神の愛の中に入る道は神の御子イエスキリストを信じる他はありません。

心からおすすめします。

 

 

 

 

2013年3月3日主日礼拝のメッセージ

テモテ第2の手紙 1:6~14

 

私たちに賜った 力と愛と慎みの霊に満たされよう!

そうすれば臆病者になれないのです。

あふれる恵、平安、喜びに満たされる神の霊によって

私たちは福音を黙っておれなくなるのです。

今まで食べたことのない美味しい果物を食べたのち

それを知らない人に教えたくなる。福音を伝えるとは

そういう事だと思います。

 

困難の向こうには必ず希望がある

上のヘッダーの写真は息子の道雄君が今から魚を獲りにゆこうとするところです。

この場所は伊勢志摩の大王岬の近くにある市後浜(通称ストロベリービーチ)です。

ここは海水浴禁止ですが、サーフィンで有名なところです。

しかし、奥の浜辺だけは波があまり立たず遠浅なところがあります。

波が立たないのでサーファーもきません。また時々近くの小学生が集団で学校の先生と

海水浴に来るぐらい穏やかなところです。

神様は誰にでも訪れる困難の向こうには、必ず穏やかさを用意してくださっています。

困難に直面したときは、神が見放されたと思ってしまい、神様がわからない時があります。

それでも神様は必ず見捨てないで愛してくれていると信じるのが信仰なのです。

しかし、その困難が過ぎ去ったとき思うんです。乗り越える事ができるようにしてくださったと・・・

その困難は私を強いものにしてくださるための試練であったと・・・感謝が湧いてくるのです。

人の考えでは悪いように思えても、神様は、全てを益としてくださいます。

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