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今週のメッセージ2013年10月

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2013年10月28日のメッセージ

「voyager」

「遠い旅人」という意味ですが、

私達はいったい、何処から来て、何のために生き、
何処へ行こうとしているのか判らない
行く宛の無い人生の旅人です。
多くの人は、彷徨い続けています。
行く先の解からない旅ほど虚しい事はありません。
生きる目的や価値観が無く生きているのです。

聖書にはその答えが有ります。私はこの事実を知ったとき
目からウロコが落ちました。全ての疑問が解けたのです。
聖書から出る言葉が嬉しくて嬉しくて必死に勉強しました。
聖書を宗教書としてではなく、神の真実の言葉として
受け入れることが出来たのです。

さて、アリスの最新のアルバムが今年出ました。
アリスの中にある1曲です。「ボイジャー」という曲です。
2番目の歌詞がすごいです。替え歌はしていないです。
谷村新司さん作詞、矢沢透さん作曲です。

クリスチャンの方ならこれが聖書的であると簡単に判ります。
谷村さんに信仰があるかどうかは、判りませんが、
信仰が無いとなかなか書けない内容だと思います。

2体に隠された 全ての秘密の答えは
小説よりも 映画より深くて
その指 その数にも 瞳の形も色にも
全ての答えがスバルを超えてく

雨は身体を巡り 流れ海へと還る
We are voyager まばたきの間に
We are voyager 駆け抜けてゆく 全ては 旅の物語

きっときっときっと気付ける 不思議は無いんだと そして
きっときっときっと見つける 旅のその意味その理由

水は母と呼ばれてやがてマリアに変わる
We are voyager 始まりはイブ
We are voyager アダムの運命 全てが 旅の物語

きっときっときっと気付ける 不思議は無いんだと そして
きっときっときっと見つける 旅のその意味 その理由

そして、きっときっときっと見つける マリアの意味は始まり。

と言う歌詞です。

「万物は、神からいで、神によって成り、神に帰するのである。
 栄光がとこしえに神にあるように、アァメン。」
                  ロ-マ人への手紙 11:36

「ちりは、もとのように土に帰り、霊はこれを授けた神に帰る。」
                       伝道の書12:7

私達人間は肉体は土のチリ(窒素・リン・カリウム)
で造られました。肉体が無くなれば霊魂だけが残ります。
しかし、その霊魂はなくなりません。授けられた神に帰るのです。

聖書では私達人類は旅人、寄留者とあります。ボイジャーです。
行く先は、神の国です。私達は神の国を求めて生きる旅人です。

しかし、残念ながら、罪のある霊魂は神のもとに帰れません。
罪を赦されたイエスキリストの十字架を通して神の愛を受け、
信じるなら、神の国に行けるのです。
神の国への道はこれ以外にはありません。

人間自身の善い行いでは、残念ながら神の国に行けません。
キリストの十字架を知り、神の愛を受け入れる人だけが行けます。
不公平と思われるかもしれませんが、これが最善の公平なのです。
また、創造主のお心なのです。神の愛を知った者だけが
神の国の住人になれるわけです。

この方法だけが、誰でも信じるだけで救われる道になります。
神の国では、誰も誇れず皆が公平になる事で神の愛で平和になり
そして、信じた後の善い行いが、その信仰の姿結果となります。

その救いを知るなら、私達の旅はより心強いものとなります。

処女マリアを通して受肉降臨した神の御子イエスキリストの
十字架は、神の一方的な愛であり、天国の門です。

それを見つけることができたなら、
旅の意味とその理由を知れる事でしょう。

多くの人が真実を悟れますように、心よりお祈りしております。

 

2013年10月20日のメッセージ

「狭い門から入れ」

狭い門からはいれ。滅びにいたる門は大きく、
その道は広い。そして、そこからはいって行く者が多い。
命にいたる門は狭く、その道は細い。
そして、それを見いだす者が少ない。
                 マタイ福音書 7:13

誰が言ったのか「赤信号みんなで渡れば怖くない」
と子供の頃聞いたのを思いだします。

また、駐車違反の切符を切られたおばさんが
「みんな、停めてるや~ん」と言うCMもありました。
私も、昔、同じ失敗をした記憶があります。(笑い)

日本人は特にみんながしているから私も良いのだと
相対的な判断で安心感を覚えます。
ブランドの服など流行りものは、みんなが持っているから、
みんなに自慢できるからと言う基準で欲しがります。

回りから相対的に判断する日本人ですが、
宗教だけは世界の3割以上が信じられているキリスト教では無いのです。
聖書を元にして信仰を持っているのがユダヤ教、イスラム教ですが、
それらを合わせると世界半数以上の人達が聖書の創造神を信仰しています。
世界の中で仏教はと言うと1割に満たないのですが、
日本人の宗教は仏教だと言います。これは、400年前に
徳川幕府が信仰拡大してきたキリスト教を排斥しようと
弾圧したからなのです。それに代わる宗教としてお寺を各地に
建てて、隠れキリシタンを見張り廃絶させたのです。
日本にお寺が多いのはそう言う背景があるからなのです。
この時代では、救いは確かに狭い門だったのです。

さて、この聖句の次に、「偽預言者に気をつけなさい」と教えてます。
滅びに向かう道というのは誰でも行きやすく、もっともらしい
正しい道のように見えるものです。誰もがその道に行きたくなるように
罠が仕掛けてあります。その上、権威や権力で脅される事もあります。

ネット社会でも詐欺にかかるほとんどの人は、こう言う甘い誘惑に
乗ってしまう人です。「うまい話には必ず裏がある」と思わないと
騙されてしまう人が多いです。楽してうまい儲け話に飛びつく人が
、騙されてしまいます。また、本物のように見せることがうまいです。
悪魔は天使に偽装するとありますから、その本性を見抜かなければ
なりません。その目的は野心的で金銭と情欲と名誉が絡んでいます。

神は偽者があるから、騙されないように注意しなさいと教えています。
みんながしているからと言って正しいとは限りません。よくよく調べて
見ると必ずしっぽが見えてきます。騙されないように慎重に
道を決めなければなりません。

騙されないようにするためには、欲望をこの地上の物ではなくて、
神の国の欲望を持つことなのです。それが、この世に勝つ力になります。

聖書はこう言います。

「富むことを願うのは悪の根である」Ⅰテモテ5:7~9と
「神の国を思い、この世に物に心奪われるな」コロサイ3:1
「まず神の国と義を求めなさい。天に宝を蓄えなさい」
とあります。               マタイ6:33

この世のものを排他的に生きるのでは無くて、
まず神の国を自分の最大の欲望にするのです。
永遠の命の約束と無尽蔵の富が与えられる約束を信じるのです。
死んで蘇った方が約束されたのですから、確実だと信じるのです。
そうすれば、この世の物は全て色あせて見えます。

私も、神を信じた時、お金がただの紙切れに見えるようになりました。
お金では、いのちは買えない。真の幸せも買えない。
この世の見えるものは、全部消えて無くなるものなのです。
天国ではお金で何も買えません。

この世で大儲けしようと切望している人は騙されることが多いのです。

また騙す側にもなります。これはもっと最悪ですね。

しかし、神が与えてくださる約束を確信する事で、
この世の誘惑にけして負けることはありません。
ましてや、この世においても、衣食住必要な物は皆与えてくださると
言うのですから、安心です。本当に素晴らしい事です。

信じますか?信じる人は幸いです。

私事ですが、私は神の国のために大阪市の公務員を辞めて献身しましたが、
今尚、必要な物を何不自由なく主が与えてくださっています。
大阪市を辞めるという決心は、私の狭き門、険しき道に入る事でした。
しかし、神様は必ず保証してくださると信じて踏み出した決心です。

その決心の道を歩く時、神はその人を祝福するのです。
しかし、多くの人は目先の安堵感だけを見て道を選びます。
私はどちらかと言えば石橋を叩いて渡る慎重なほうです。
ですが、神の国の約束を確信出来たのです。
神の愛を確信したのです。目で見えない神を、約束を信じる事が
出来ました。それは神の国を求めた結果なのです。

さて、昨今いじめの問題が絶えません。
多くの人は、自分を守る為に悪を是正するのです。
これは利己主義的な考えにしか成れない人間の罪の結果です。
善を行う時、人がどう思うか、人の目を気にしたらダメです。
神様は、人を愛する事と、神が喜ぶと思う道を選択することを、
人間に教えているのです。

「なすべき善を知りながら行わないのは罪である。」ヤコブ4:17
「神は喜んで施す人を愛してくださる。
また、そのためにその必要を備えてくださる」
Ⅱコリント9:6~8

しかし、神が用意してくださる神の国のため、自分の永遠の命のために
犠牲を払うなら、必ず今以上に恵みを与えてくださいます。

2つの道を選ぶ決心の時が重要です。そこが信仰になるわけです。

正しい道とは困難に見えても、神の戒めによって進む道。
神の御言葉を聞いて行うものになりなさい。(マタイ7:14)
人をさばくなと聞いたらさばくな、赦せと聞いたら赦せ、
求めよと聞けば求める。神の戒め通りに生きるとは、愛すること。

愛する事はイエス様の十字架がお手本です。
それは自分にも犠牲を求められます。
神の御言葉のゆえに困難が来たら逃げ出すような、
石地に蒔かれた種になってはいけないのです。(マタイ13:10)

神の愛を得た人は、恐れを取り除かれ、勇気が出てきます。
いじめられている人を見たら守ってあげる力がでます。
それはあなたにとって狭き門、細き険しい道になります。
しかし、その向こうに命があり、神の力があるのです。

自分の肉の命を活かすために生きるなら滅びます。(利己主義的な生き方)
しかし、自分の霊魂を活かそうとする時、肉体の縄目から開放されます。
それが狭き道を歩く力になるのです。ガラテヤ6:7

それは多くの人が行く道から一人反れて孤立するかも知れない道。
烏合の集になってはいけません。神の正しさを求めなければなりません。

そのために、親しい人から嫌われたり、苦しさが伴うかも知れません。
しかし、耐えうる力を神は必ずくださるのです。そして、必ず祝福されます。

神の祝福がありますように・・・

 

 

2013年10月13日のメッセージ

「神の国を体験する信仰」

そしてイエスは彼らに言われた、「全世界に出て行って、
 すべての造られたものに福音を宣べ伝えよ。
 信じてバプテスマを受ける者は救われる。
 しかし、不信仰の者は罪に定められる。
 信じる者には、このようなしるしが伴う。
 すなわち、彼らはわたしの名で悪霊を追い出し、
 新しい言葉を語り、へびをつかむであろう。
 また、毒を飲んでも、決して害を受けない。
 病人に手をおけば、いやされる」。
 主イエスは彼らに語り終ってから、
 天にあげられ、神の右にすわられた。
 弟子たちは出て行って、至る所で福音を宣べ伝えた。
 主も彼らと共に働き、御言に伴うしるしをもって、
 その確かなことをお示しになった。
                 
                マルコ福音書16:15~20

神様は福音(神の国の救い)を伝えるのに
言葉だけでなく神の国の力がしるしとして
伴なうのだと約束されました。
2000年経った今でも、事実世界中で神の癒やしや
奇跡が起こっております。これは、信じようとするものに
伴うしるしであって、見えない神の力を体験する
目的にあります。病を癒やすのが目的では無くて、
その人が目で見えない神を知るためです。
知るというのは知識ではなくて、
経験体験のことなのです。

誰でもかれでも癒やされるのでは無くて、
神様を体験して知りたい、神が癒してくださると
信じ求めようとする心を見て神の癒やしが現れます。

癒やしの力は癒す人に不思議な力があるのではなくて、
癒される人の神を信じようとする心にあります。
そこに神の霊が働かれます。

ただ単に言葉だけの救いではなくて、
その言葉の確証たるしるしを神は現されるのです。

神の愛を知ることが最大の目的ですが、
神の国の力がこの世に臨むことの
事実を誰でも体験できるようにしてくださったのです。

聖書にはイエス様によってたくさんの癒しの事実が
書かれております。死人は蘇り、悪霊は追い出されます。
これが、現代の私達にも起こるのです。

私も、20年前に膝の痛み(炎症で水がたまっていた)があり、
教会に行けば神が癒してくださると信じ痛みを我慢して集会に
行きました。讃美をしている内に膝が温かい蒸しタオルで
覆われたように熱くなり、一瞬にして膝の痛みが無くなった
のです。この時にはびっくりしました。
ハレルヤ!これは癒やされた私しかわかりませんが、
明らかに瞬間に治ったのです。

またアトピー性皮膚炎の2歳の娘を教会に連れて来た
お母さんが信仰を持つようになって見る見る内に癒やされて
いきました。初めて見た時、全身、真っ赤で血だらけの
子でしたがその後、雪のように白い肌になっていました。
その子の名前は確かゆきちゃんでした。

神様が御言葉どおりに癒してくださるのだと決心し、
神様に近づくアクションを起こした時、神は、その人にしるし
を持って現れてくださるのです。懐疑的な人にはけして
現れませんが、信じ求めようとする心があれば癒されます。
その信仰は小さくても良いのです。
信じようとする心があれば良いのです。

これは聖書の持つほんとうの意味を知るための入り口になります。

皆さんも、神の国の力を体験する決心を持ってお近くの教会に
是非、求めてみてください。そして祈ってもらってください。
神の国の力を体験されますように。心からお勧めします。

 

 

 

2013年10月6日のメッセージ

式年遷宮

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先日伊勢神宮に置いて
神様(天照大神)のお引越しと言われる
式年遷宮が先日行われました。
右から左へと御神体(鏡)のお引越しですね。
20年に一度ということで大盛況ですね。

私も小さいころ伊勢の内宮に何度か行きましたが
五十鈴川の清らかさ、色とりどりの鯉達、
涼しい気配の木立の中を歩くのは心が清まる思いに
なった事を覚えております。

私が聖書の神様と日本の神様のスケールの違いを感じ
感動した御言葉がございます。

この世界と、その中にある万物とを造った神は、
天地の主であるのだから、手で造った宮などにはお住みにならない。
また、何か不足でもしておるかのように、
人の手によって仕えられる必要もない。
神は、すべての人々に命と息と万物とを与え、
また、ひとりの人から、あらゆる民族を造り出して、
地の全面に住まわせ、それぞれに時代を区分し、
国土の境界を定めて下さったのである。
こうして、人々が熱心に追い求めて捜しさえすれば、
神を見いだせるようにして下さった。
事実、神はわれわれひとりびとりから
遠く離れておいでになるのではない。
われわれは神のうちに生き、動き、存在しているからである。
あなたがたのある詩人たちも言ったように、
/『われわれも、確かにその子孫である』。
このように、われわれは神の子孫なのであるから、
神たる者を、人間の技巧や空想で
金や銀や石などに彫り付けたものと同じと、
見なすべきではない。神は、このような無知の時代を、
これまでは見過ごしにされていたが、今はどこにおる人でも、
みな悔い改めなければならないことを命じておられる。
神は、義をもってこの世界をさばくためその日を定め、
お選びになったかたによってそれをなし遂げようとされている。
すなわち、このかたを死人の中からよみがえらせ、
その確証をすべての人に示されたのである」。

                   使徒行伝17:24 ~31

いと高き者は、手で造った家の内にはお住みにならない。
預言者が言っているとおりである、『主が仰せられる、/
どんな家をわたしのために建てるのか。
わたしのいこいの場所は、どれか。
天はわたしの王座、/地はわたしの足台である。
これは皆わたしの手が造ったものではないか』。

                   使徒行伝7:48 ~50

この言葉にはびっくりしました。日本人はやたらと御神体とか、
仏像、仏壇等の崇拝対象をつくりますが、聖書はそれをしては
ならないと記しております。それが「モーセの十戒」の一部です。

日本の神様が
“人が造った神様”に対して
“人を造った神様”である聖書の神様は理にかなった事だと
納得いたしました。

日本人の宗教観では、
人が亡くなれば誰でも仏様と言い神様的存在で
先祖崇拝をします。これは本来の仏教では無いのです。
人は死んでも人なのです。崇拝対象にはなりません。
多くの日本人は何も知らずに「私は仏教徒です」と言います。

仏教の教えはどこまでも、自力本願で輪廻転生からの解脱です。
涅槃という極楽浄土に行く目的で、自分で修行をすれば仏に成れる。
解脱した人を成仏したといいます。しかしこれは釈迦が思いついた
思想であり約束や保証はありません。

真逆にキリスト教は、
キリストの十字架ゆえに罪赦され神の国に行けると言う
他力本願であり、その約束と保証をされた神の愛を信じる信仰です。

仏教には信じれば解脱できるという約束も保証もありません。
釈迦を信じても、釈迦は救いの約束をしておらず、
釈迦も、仏になるなんて何の確証も無くなったかどうかも
分かりません。釈迦の教えで行くと、日本人は誰も仏に成れません。

けして仏教批判をしているのではありません。
仏教を知らずに仏教を信じている日本人に対しての疑問です。
勿論、宗教としての仏教の教えは大変素晴らしい教えだと思います。

それに比べて、神は御子をこの世に計画通りに送り十字架で死なれ、
私達の罪の代わりに死なれて、朽ち無い体に蘇り、聖霊を
贈る約束までなさり、信じるもの誰でも神の国に救うという
約束をしてくださったのです。それを確証付ける証拠が、
世界の約30%の人が信じているゆえんなのです。

人が造った宗教とは全く違う。
素晴らしい神様の愛と救いの計画に感謝いたします。

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今週のメッセージ2013年 9月

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2013年9月29日のメッセージ

「求める決心」

進化論を信じる人は、人間は偶然の存在です。
偶然の存在なら、弱肉強食の世界です。
殺しあっても誰も裁かれません。
人間は動物のうちのひと種類だからです。

アメリカで銃乱射事件で多くの人を射殺し
捕まった若者がいましたが、彼は進化論によって
偶然に出来た動物が殺しあっても何の不思議な事は
無いと思っていたそうです。

しかし、神があなたを造ったとなると、
それは特別なことです。意味があることです。

あなたは神に愛されるために生まれてきました。
創造主である神は人だけは特別に神の形に
かたどって、神の子としてなれるように造られました。

けして、神は思いつきで造ったのでは無く、
計画と目的と御心があっての事です。

神が私を愛されている?そんな事、ピンと来ないなあ。
と言われるのはもっともなことです。

神の愛を知るためにはまず、キリストの十字架です。
これは神の愛の具現化です。
古今東西、神は人類に実際に神の愛を示されたのです。
それも天地創造の前から計画されていたと聖書は言うのです。

しかし、これが理解できないのは当然です。
おとぎ話のようで現実とは思えない話です。

私達人間の知恵や常識を超越している事柄です。

「この世は自分の知恵で神を認めるに
 至らなかった。それは神の知恵にかなっている。
 そこで神は宣教の愚かさによって
 信じる者を救う事とされたのです。」Ⅰコリント書1:21

神の知恵は、人間を超越しております。
敢えて愚かな方法で信じる者を救うこととされました。
そこで神の思いは、神から送られる賜物によらなければ
理解できないことにされたのです。

その贈り物が、「聖霊」です。

十字架の意味も、神の愛も聖霊が判るように
してくださるのです。神の愛を知るためには、
聖霊が必要なのです。

「私達にくださった聖霊によって神の愛が
 私達の心に注がれているからである」ロ-マ書5:5

それでは、その聖霊は本当に来るのでしょうか?
どうしたら聖霊を送ってもらえるのでしょうか?

神は求めて来る者に、与えてくださると言う
約束があります。求めようとしないものには送られません。
ジッとしていては送ってくださらないのです。

「求めて来る者に聖霊をくださらないことがあろうか。」
 と神は伝えております。     ルカ福音書11:13

聖霊は神の愛を知る(体験)事のできる事実です。

「聖霊を求めようとも、見ようともしないから
 得ることが出来ない」と神は言っておられます。
               ヨハネ福音書14:17

では、神に愛されている事を知る方法は?

簡単に結論を言います。

神の愛を受けることが、できる道はただ1つだけです。
イエスキリストです。この方を知る事です。
この方を信じ、知る事ができるように神に願い求めること。

ただ、そしてこの決心により祈ることです。

「神を求めよう!」

私は友の勧めで教会に行きだした頃、なかなか理解出来
ないのでこのように毎日祈りました。

「こんな鈍感な私でも神様を判るようにしてください。
信じれるようにしてください。もし神が居られるというのなら
あなたを知りたい。出会いたい。」

それで、判らなかったらもう教会に行かないでおこうと
思い祈りましたが、神を否定できなくなり、神の愛も鈍感な私にも
判るように示されました。その結果、牧師になっております。

ある人は、イエスキリストの話を聞いても
信じる事が出来なかったと言うかも知れません。

また、ある人は、神が愛なら黙っていても救ってくれると思っていた。
(私も一時期そう思っていました。それは信仰では無いです。)

しかし、あなたは聞いたのに 何故、求めようと
しなかったのか?と問われる日が来るのです。

ただ、「求めよ、そうすれば与えられるだろう。
    探せ、そうすれば見つかるであろう。 
    門を叩け、そうすれば開けてもらえるだろう。
   
    父なる神は求めてくるものに
    良い物を与えてくださらないはずはない。」

と断言されています。      マタイ福音書7;7~12

是非、神の愛を求めてみて下さい。心からお勧めします。

 

2013年9月22日のメッセージ

「律法の要約」                                               
だから、何事でも人々からしてほしいと望むことは、
人々にもそのとおりにせよ。これが律法であり預言者である。

 マタイによる福音書7:12

私は外で植木の仕事をする日は必ず飲み物等を買いに
コンビニによく寄ります。特にセブンイレブンの珈琲は
安くて美味しいのでお気に入りです。

ある日、コンビニの駐車場でゴミ箱があるのにそこら中に
捨てている若者を見ました。その子に笑顔でこう言いました。
「自分の家にゴミを捨てられたら君はどう思う?」
「嫌だよね~」そうしたら、ゴミを拾ってゴミ箱に入れて
くれました。その子に注意する人は無かったのでしょう。
自分の為に注意してくれる人がいればありがたいですよね。

あるユダヤ人でない人が
ユダヤ人の著名な学者ヒルレルに質問しました。
「私が片足で立っている間に律法の全てを教えて下さい。」
「あなた自身の憎むことを、あなたの隣人にしてはならない
これが律法の全てで、他の言葉は注釈である」と答えました。
トビト書4:15にも「あなたの憎むことを誰にもしてはならない」
とあります。

これらは非常に消極的なとらえ方であると言えます。
常識的であり、何もしないでいれば良いと言うことになって
しまいます。

しかしイエス様は、より積極的な内容で語られました。

11節では天の父は求めてくるものに、良い物を与えられると言う
人との関わりの積極性を示しておられます。そのように
私達にも積極的な対人関係の善を要求されているのです。

それは天に宝を蓄えることであり(マタイ6:20)
天国においての報いを得るように勧めておられるのです。

この黄金率(ゴールデンルール)は山上の垂訓の総まとめです。
(マタイ5章からの内容)これが、聖書全体を示す要約であり、
イエス様が積極的な対神関係、対人関係を持つ事によって
律法の本来の目的に沿うように教えられたのです。
聖書は人間のマニュアルみたいな物です。取り扱い方を
間違うと正常な動作がのぞめないのです。

要するに聖書の教えるところは

自分が愛されたいなら、積極的に人を愛してゆきなさい。
そして自分のして欲しいと思う事を、他人にしていくのです。
対人関係を積極的な善を持って働きかけてゆくのです。
人に赦してもらいたいなら、まずあなたが赦しなさい。
人から愛されたいなら、あなたから愛しなさい。
自分が認められたいなら、相手を認めなさい。
自分が理解されたいなら、あなたが理解して上げなさい。
自分が尊敬されたいなら、相手を尊敬し、
自分が信頼されたいなら、相手を信頼し、
相手と平和を保ちたいなら、自分から平和を作り出します。
私達はこの力が与えられるように祈らなければなりません。

ついつい、人は自分を正当化し自分を固守しようとして相手に
要求し相手の所為にしがちです。そこで相手に要求する事を、
自分に要求するのです。自分のいたらなさを認めるのです。

私も、相手と仲違いした時に、まず相手の悪い事だけを主張せず
自分の悪かったところを謝ります。自分が悪い事を認めるのは
悔しい事かもしれません。しかし、謝ってほしいと願うなら
相手が怒っていることに対して謝るべきだと思います。人間は
完璧ではありません。必ず失敗するものです。しかし、失敗を修正
できる人は幸いです。

イエス様の十字架の愛に習い、平和を造り出すために自分を
犠牲にすることが求められているのです。

「自分の十字架を背負う」とはそういうことなのです。

愛するとは、自分が憎まれても、その人を憎み返さずにその人の
有益を求め、神が愛してくださったその人を受け入れることです。

ある人が言いました。「愛の反対は憎しみでなく、無関心である」。
何も考えないのが愛の欠落であり、積極的に善を持って相手と
関わってゆく事が愛の動機です。

聖書は言います
神があなたを愛されたように、あなた方も愛し合いなさい。

最後に、パウロもこのように語りました。

互に愛し合うことの外は、
 何人にも借りがあってはならない。
 人を愛する者は、律法を全うするのである。
 「姦淫するな、殺すな、盗むな、むさぼるな」など、
 そのほかに、どんな戒めがあっても、結局
 「自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ」
   というこの言葉に帰する。
   愛は隣り人に害を加えることはない。
   だから、愛は律法を完成するものである。

              ロ-マ人への手紙13:8~10

 

 

2013年9月15日のメッセージ

「らくだが通るには?」

「富んでいる者が神の国にはいるよりは、
 らくだが針の穴を通る方が、もっとやさしい」。
  これを聞いた人々が、
「それでは、だれが救われることができるのですか」
 と尋ねると、イエスは言われた、
「人にはできない事も、神にはできる」。
 
           ルカによる福音書18:25~

この句節は18節からの話になります。ある役人が
「何をすれば永遠の命の受けれるか?」
とイエスに質問します。
幼い時から、戒めを守ることはしてきた、
しかし、大金持ちであった役人に、財産をみな
手放しなさい、そして貧しい人に施しなさい。
そうすれば天に宝を持つでしょう。
そして、イエスに従ってきなさいと
言われました。しかし、彼は財産が惜しいゆえに、
悲しんだとあります。その後の御言葉です。

この役人は、神では無くて気づかぬ内に財産を
頼りにしていました。イエス様は財産をあてにせず
神に頼る生き方を迫られたのです。
富と神、両方同時に仕える事は出来ないのです。
「2足のわらじは履けない」ということです。

財産を全て貧しい人々に分け与えなさい。
それは天に報いがあると言われただけで、
これは単なる自己犠牲や自己放棄。清貧の命令でなく、
勿論、献金せよと言う命令でもないのです。

イエス様は道です。イエス様は言われました。
「私が道であり真理であり真理である。私によらなけ
れば誰も父の元に行くことはできない」(ヨハネ14:6)
イエス様は羊の門です。そこを通らないと救いは無い。
そして羊のために命を捨てるとおっしゃいました。
それが贖いの十字架です。イエス様が救いの道なのです。

また、ユダヤ人の考え方には、金持ちは神様の祝福を
受けている人だと認識されているところがありました。
ある役人のその悲しんだ様子を見て、イエス様は、
お金持ちが救われるのは、らくだが針の穴を通るより
難しいと言われました。(金持ちだから入れるという
人々の思い込みを払拭しています。) 人々は
「それでは誰が救われるのか」と聞くとイエス様は
「神には何でもできる」。その答えには、
金持ちだから救われないという、言葉を打ち消された
のです。救いは神の力によるものだと言うことなのです。

「何をすれば命が与えられる?」と言う質問に対して、
自分が何かをしたゆえに救われるのはなくてただ
イエス様に従い習うだけであると言うことなのです。

イエス様に従うと言うことは、神の力です、神の国を
一番にできる恵みと力が聖霊によって支配されるのです。
まず神の国を一番に求める決断力を持つ事です。
その決断によって犠牲にしたものは、必ずこの世で
幾倍もの祝福を受けると約束されます。この世でも更に
必要な物がちゃんと与えられるのです。そしてその上に
永遠の命が受けられるのです。

まず神の国と義を求めなさい、そうすれば必要な物は
主が備えて与えてくださいます。神の国を目指し一番
にするなら何も心配する必要は無いのです。
(マタイ福音書6:33,34)

私達神に造られた人間は自己実現のために生きるのでは
無く、神の実現に生きるという事で生きる価値が神から
見出されます。神が人を造ったのは神の目的によるもの
です。ゆえに創造者に逆らって生きるなら、それは存在
価値がなくなるのです。造られた人間は、造った方に従
うのが神の義なのです。

日本人は物質的には裕福です。しかし、お金や名誉、
地位を一番に考え、悪魔が喜ぶような社会にコントロール
されてしまいます。神に頼り、神の戒め通りに生きるなら
素晴らしい世界が開かれ自由になりこの世に支配されず
勝利します。前回の半澤直樹の最後、近藤が自分を守る
ために友を裏切るシーンで終わりましたが、残念でなり
ません。

かく言う私も、神の国のために200万円の借金を持ち
ながらも公務員を辞職しました。しかし、神は必要な物
(衣食住)を与えて下さり、今は普通に生活ができて
おります。もちろん、借金も返済出来ました。

真の神様に出会えて感謝で一杯です。

 

2013年9月8日

「罪人を招く神様」
イエスはこれを聞いて言われた、
「丈夫な人には医者はいらない。
 いるのは病人である。
『わたしが好むのは、あわれみであって、
 いけにえではない』とはどういう意味か、
 学んできなさい。
 わたしがきたのは、義人を招くためではなく、
 罪人を招くためである」。
                   マタイ福音書9:12~13

病院に行く人は自分の体に問題があると
自覚する人です。しかし、病気であっても
気づかない人は、自分は健康であると言って
病院に行こうとはしません。

その為に健康診断を受けて自分の体に異常が無いか
調べるわけです。自分では自覚が無くても
問題が発覚される時があります。
早期発見、早期治療で助かる人も多いです。
私の家内もガンが早く見つかり、今はもう
健康な体です。早く発見できたのは
本当に神様の恵みのサインでした。

造り主である神様は、
自分は正しい人間だと思う人は、必要とされず
自分が罪人であると自覚する人間を招かれるのです。

自分が罪人であり、愚かな自分であることを
認めた時、神はあなたの罪を赦してくださるのです。
しかし、罪を認めない人は、神を必要とせずに
自分自身が神で在り続けるのです。
これこそ自覚のない罪になってしまうのです。

この句節は、イエス様が罪人と一緒に
食事をしているところを非難しているユダヤ人の
指導者たちに語った言葉です。

神の言葉を固く守る事を教えている彼らは、
律法の中で一番大切な公平と哀れみと誠実を
なえがしろにしている事に気付いていませんでした。

だから、彼らは病気に気づいていない病人なのです。

自分の問題に気づく人は本当に幸いです。
治そうと努めるからです。肉体は病院へ、人間の霊魂の
修理はこれを造った神様のところに行けば
完全に修理してくださるのです。

神様の目指すところは、神の愛と赦しを知り
神が造られし人間を修復されることなのです。

そのためにイエスキリストが罪の赦しの道となられました。
心からお薦めいたします。

 

 

2013年9月1日

半澤直樹の人気はすごいですね。
私も毎週楽しみに見ております。

「やられたらやり返す、倍返しだ!」

というセリフがはやり文句になってますね。

しかし、聖書で神様はこう言われました。

「悪人に手向かうな。右の頬を打たれたなら、
 他の頬も出してやりなさい」
「汝の敵を愛せよ!」「相手を赦してやれ!」

全く、違う事が語られます。

果たしてこんなことができるのでしょうか?

神様が全てご存知で復習してくださると信じる事で近づけます。
神様がおられて個人的にも愛されていると信じる事が信仰です。
日本人は神様を人間の空想の産物的に考えます。私も以前はそうでした。

人間が造った神ではなく、人間を造った神が居られるという事実です。
イエスキリストが神の存在と約束を明らかにしてくださいました。
この神の言葉に従うことで全てを益としてくださるのです。

時には神様は悪を敢えて放置することで
神の義と愛を現してくださいます。そして私達を神の子として
成長させてくださいます。

半澤直樹の第4話で、支店長の悪を見抜きギャフンと言わせました。
しかし、半澤はこの支店長にも愛する家族生活がある事を見たのです。
半澤は、自分の家族を潰された悲しみを持っています。その悲しみを
自分と同じように味わわせたくないと思ったのでしょう。
その支店長の家族のゆえに赦したのです。
その結果、支店長は完全に修復されました。これには感動いたしました。

神様も、悪人を裁くのではなく修復する事を望んでおられます。
人は生まれつき悪人などおりません。神は人を良き者として
お造りになりました。しかし、この世の欲望が人を悪人に
変えてしまうのです。この世には悪魔の誘惑があります。
しかし、その誘惑に誘われるのはその人の意志によります。
人には、間違った意思をもたぬように神様の戒めが必要なのです。

悪魔はもともと神に仕えていた天使です。その天使が神に反抗して
自分も神になりたいと、人を支配しようと企んでいるのです。

欲望を持って人を操る悪魔に対しての戦いは、
私達被造物が神様の愛を信じて従う事が如何に大切なことかを
知らしめる事なのです。

 だれに対しても悪をもって悪に報いず、
 すべての人に対して善を図りなさい。
   あなたがたは、できる限りすべての人と平和に過ごしなさい。
   愛する者たちよ。自分で復讐をしないで、
   むしろ、神の怒りに任せなさい。
 なぜなら、「主が言われる。復讐はわたしのすることである。
 わたし自身が報復する」 と書いてあるからである。
   むしろ、「もしあなたの敵が飢えるなら、彼に食わせ、かわくなら、
 彼に飲ませなさい。そうすることによって、
 あなたは彼の頭に燃えさかる炭火を積むことになるのである」。
    悪に負けてはいけない。かえって、善をもって悪に勝ちなさい。
                            
                       ローマ12:17~21

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今週のメッセージ2013年8月

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2013年8月25日

「八重の桜」を見ました。

Yes,Jesus loves me.The Bible tell me so.

皆で賛美歌を歌う姿、素晴らしいです。

2000年前、イエス様は、周りの人から憎まれました。
それも神を信じていると言うユダヤ人の指導者からです
それでも、イエス様は神の御心を果たされました。
聖書の預言通りに・・・・

あの使途パウロも、始めはイエス様を信じる人たちを
迫害していました。

しかし、彼は、イエス・キリストが
真実な神の姿だと知ることになります。

イエス・キリストが神であると
あえて神は判りにくくされています。

それは、真の神を求める者だけが見出せるように
敢えてそうされたのです。

 「この世では、自分の知恵でによって
 神を認めるに至らなかった。
 それは神の知恵にかなっている。
 そこで神は、
 教え伝えると言う簡素な方法で、
 信じる者を救う事とされたのである。」

      1コリント人への手紙1:21,22

同手紙2:10
  「神は聖霊によって私達に啓示して
   示してくださったのである。」

イエス・キリストの十字架は隠された奥義としての
神の知恵なのです。

求めるものには、この聖霊があなたに神の愛を
知れるようにしてくださいます。求めないものにはけして
知ることは出来ません。

イエス様はあなたの家の戸の外に立ってノックしています。
しかし、鍵をあけ、扉を開けるのはあなた次第なのです。
心の扉を開けるなら神は入ってきて、出会って下さるのです。

神の愛を多くの人が知れるようにと祈ります。

 

2013年8月18日

「自分で道を見分ける」

各国の著名人を乗せた客船が沈没しそうになりました。
さて、どのように勧めれば船から飛び降りてくれるでしょうか?

イギリス人には 「紳士はこういうときに飛び込むものです」
ドイツ人には 「規則では海に飛び込むことになっています」
イタリア人には 「さっき美女が飛び込みました」
アメリカ人には 「海に飛び込んだらヒーローになれますよ」
ロシア人には 「ウオッカのビンが流されてしまいました、今追えば間に合います」
フランス人には 「海に飛び込まないで下さい」
日本人には 「みんなもう飛び込みましたよ」

ジョークですが、お国柄の性格がよく現れていますよね。

先日、ある人にイエスキリストの福音を伝えると、
そんなに素晴しい話なら、何故日本人はみんな信じないの?

その人は私の話を聞いて素晴らしいと思ってくれたんですね。

そこで、その人に世界の30%以上の人はキリストを信じていますよ。
と言いました。そうしたら、「私は日本人だから・・」
と返されました。

ところで、
ブランドバッグが好きな人は多いと思います。しかし、
何故高いのにぞのブランドバッグを買いますか?
と聞きますと、皆が持っているから、人気があるから、
持ってると皆から注目されるから、大体そのような答えです。
多くの人が、この製品の何処がいいのか説明出来る人は少ないです。
合成皮革なのになんでこんなに高いの?と思うブランドバッグもあります。
みんなが持ってるからと言って、その製品が良いとは限りません。
昔、ビデオでベータ方式とVHS方式がありました。
画質が良いのはベータ方式でしたが、宣伝力でVHS方式が普及しました。
自分で良い品物を求める人はベータを選びました。

自分で見分ける目を持つ人は幸いです。

日本では、徳川時代にキリスト教を邪教として禁教令が出されました。
キリストを信じるなら、見せしめに拷問に掛けられ、殺されたのです。
だから、日本では多くの人がキリスト教を見向きもしなかったのです。
キリストを信じることで災いが来たからです。

イエス様はおっしゃいました。

狭い門から入れ。
滅びに至る門は大きく、その道は広い。
そして、そこから入っていく者が多い。
命に至る門は狭く、その道は細い。
そして、それを見出すものは少ない。
                   マタイ福音書7:13
この後、2つの話が続きます。
①「狭い道に入れ」
②「偽預言者を警戒せよ」
③「固い岩の上に自分の家をたてよ」です。
この3つの話には共通点があります。
それは、自らの意志で賢く道を選択をしなさいと言うことです。
②はその人の素行を見て本物か偽者かを見分けなさい。
③は自らの意志で間違いのない固き神の言葉を選んで実行する者になれと言うことです。

どの道を選択するか自分で賢く選ばないと滅びに至ります。

神は、この世では巧妙に悪に引きずり込む滅びの道があるから、
自らの目で見極めて歩くようにと警告されているのです。

 

 

 

2013年8月11日

「神は求める者に現れる」    ヨハネ福音書4:25,26

4:25 女はイエスに言った、
   わたしは、キリストと呼ばれる
   メシヤがこられることを知っています。
       そのかたがこられたならば、わたしたちに、
       いっさいのことを知らせて下さるでしょう」。
4:26 イエスは女に言われた、
     「あなたと話をしているこのわたしが、それである」

井戸に水汲みに来たサマリアの女性の話ですが、
彼女の信仰を見て私達も神と出会う恵みを分かち
合いたいと思います。

サマリアの人たちは、多民族との混血のゆえユダヤ人から
軽蔑され純粋なユダヤ人でないとされておりましたが、
この女性は、間違いなくキリストを待ち望んでいたのです。
思いがけないところで、思いがけない時にこの女性は
その約束を受けたのです。イエス様は敢えてこのサマリヤ
のスカルというこの街にこの女性に出会うために
来られたと私は考えます。

キリスト(救い主)と出会ったと言う事とは神の約束が
本当であったと言うことです。初めて会った女性の内情を
すでによく知っていたイエス様の力は神のちからと知り、
イエス様を預言者と見ました。そこでいつも不安な要素で
ある礼拝の在り方について質問したのです。サマリア人と
しては真実に礼拝を捧げられているのかという不安が
あったのでしょう。その答えは果たして真実の答えであり、
サマリア人にとっては神からの朗報なのです。その女性は
だんだん確信が湧いてきたのです。そう、私達サマリヤ人
も神に礼拝が捧げられるのだと喜びに満ちたことでしょう。

そして、核心に迫る信仰の言葉を発するのです。それが
4:25なのです。彼女は聖書の御言葉を信じ、キリストを
待ち望んでいました。その答えが26節です。
「私がそれです。」
これはモーセに神の名を聞いた時の答えと同じ意味にな
ります。「私は有る」これが、神の存在を明らかに示して
くださった。最高の瞬間だったのです。

かく言う私も神から直接、言葉を聞きました。それは、
イザヤ書41:10
「恐れてはならない、私はあなたとともにいる。
    驚いてはならない、私はあなたの神である。」
私は確信を得て、無謀にも公務員を辞めて牧師の道を決心
しました。神が良しとしてくれたのだから、恐れるものは
何一つありませんでした。

求める者には必ず神からの答えが有るのです。

エレミヤ書29:13~14【口語訳】

あなたがたはわたしを尋ね求めて、わたしに会う。
もしあなたがたが一心にわたしを尋ね求めるならば、
わたしはあなたがたに会うと主は言われる。
わたしはあなたがたの繁栄を回復し、あなたがたを万国
から、すべてわたしがあなたがたを追いやった所から集め、
かつ、わたしがあなたがたを捕われ離れさせたそのもと
の所に、あなたがたを導き帰ろうと主は言われる。

さて皆さん、傍観者になってはいけません。
求めないと神と出会えないのです。神は御言葉を聞いて
信じ求めようとする者にそれに伴う答えをくださいます。
私には確信があります。神は無理矢理にあなたを信じ
させようとして現れたりはしません。神の言葉を伝えて
くれた人の言葉を聞いて信じようとする人に現れて
くださるのです。

どうぞお求めになってください。このサマリヤの女性に
直接キリストが現れた恵み。あなたにも起こります
ように・・・・心からお勧めします。

 

 

「闇の中で輝く星達」

ピリピ人への手紙 2:14~18
2:14 すべてのことを、つぶやかず疑わないでしなさい。
2:15 それは、あなたがたが責められるところのない純真な者となり、    
    曲った邪悪な時代のただ中にあって、傷のない神の子となる  
    ためである。あなたがたは、いのちの言葉を堅く持って、彼ら
    の間で星のようにこの世に輝いている。
2:16 このようにして、キリストの日に、わたしは自分の走ったことが
    むだでなく、労したこともむだではなかったと誇ることができる。
2:17 そして、たとい、あなたがたの信仰の供え物をささげる祭壇に、
    わたしの血をそそぐことがあっても、わたしは喜ぼう。あなた
    がた一同と共に喜ぼう。
2:18 同じように、あなたがたも喜びなさい。わたしと共に喜びなさい。

 

先日、郡山市の花火大会を見に行きました。
それは迫力があって大変綺麗なものでした。
輝く花火は、闇夜があってのこと。
当然ですが、昼間は花火は見えないのです。
しかし、この世は、闇夜が本当の世界で現実です。
宇宙は万年暗闇です。これが現実です。
昼間はバーチャル空間の世界なのです。
宇宙地球花火が綺麗に見える闇夜の時のように、神様の恵みが現れるのは、苦しい時です。苦しい時こそ、恵みのチャンスなのです。
この世は悪魔が支配していると聖書は言います。暗闇の主権者だとも言ってます。
私達がその暗闇の中で、星のように輝くのは、この悪の世に神の義(ただ)しさを持つからです。神の御言葉によって生きるものには、暗闇のこの世で輝かせて下さるのです。その光はけして闇にのまれないのです。

過去のメッセージ

今週のメッセージ2013年7月

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「英  雄」

 

谷村新司さんの歌「英雄」のなかの一句節

 

「寂しさを捨て切れたなら英雄になる。」

 

人は皆、寂しさゆえ群れたがる。
不道理なことがあったとしても、群れに自分を認めて欲しいがゆえに
自分を守るために不道理を正当化する。自分をみんなから愛されたいがゆえに、
自分の損得勘定を考えて大切なことを見失ってしまうのです。

 

最近、「斎藤さん2」という観月ありささん主演のドラマを見ました。
まさしく、この方は英雄だと思いました。
自分が孤立して、みんなから嫌われても大切な事を守りたい。
本当に強い人は自分を犠牲にしてでも守るべき正しさを分かっている人です。
弱い人は、自分を守るために他を犠牲にするのです。

私も強くありたい。人の評価に左右されない強い自分でありたい。

強くなる秘訣を紹介しましょう。

復活された主イエス様は私達に「平安あれ」と促されました。
神の平安は私達を強くします。誰かに媚を得る必要もなく
神様の義を求めるなら、神様が私達を義として下さるのです。
神の義を求める者には、必要な物は与えてくださると神は約束されます。

そこに、強さが現れます。
何故なら、この宇宙一強いお方が、認めて愛してくれるのですから。
人は神の愛を知って受けてこそ強くなれるのです。
そうでないと、この世の不条理に押し流されてしまうのです。

神様の愛を知らない結果が、いじめの問題に繋がっていると言えます。

いじめは、利己主義が温床となるのです。
悪いこととは知りながらも、自分を守るために悪を是認しているのです。

主イエス様は言われました。

「自分の為に命を守ろうとする者はそれを失い、自分の命を捨てるものはそれを見出すであろう。」

主イエス様は、英雄のお手本です。
ユダヤ人の権力者は自分たちは自分たちのプライドを守るゆえに
主イエス様をつぶしにかかりました。なんと、主イエス様を十字架につけたのは神を信じ教えている
指導者や教師だったのです。しかし、これが私達全人類に罪の赦しを得させる為の身代わりとして
十字架を背負う犠牲を私達のために受けられたのです。これが主イエス様の英雄たる所以です。
神の子で有りながら死ぬ苦しみを受けるために肉体を所有された主イエス様。
人々に愛するという事の手本をお示しなりました。これが神の愛であり英雄です。
彼もこの地上においては父の愛に自分の命を委ねて任務を全うされたのです。

愛は赦しから始まります。赦された分量、人は愛します。

 

一ヨハネの手紙4:16~18

わたしたちは、神がわたしたちに対して持っておられる愛を知り、かつ信じている。
神は愛である。愛のうちにいる者は、神におり、神も彼にいます。
わたしたちもこの世にあって彼のように生きているので、
さばきの日に確信を持って立つことができる。そのことによって、
愛がわたしたちに全うされているのである。
愛には恐れがない。完全な愛は恐れをとり除く。
恐れには懲らしめが伴い、かつ恐れる者には、愛が全うされていないからである。

ローマ8:37~39

しかし、わたしたちを愛して下さったかたによって、
わたしたちは、これらすべての事において勝ち得て余りがある。
わたしは確信する。死も生も、天使も支配者も、
現在のものも将来のものも、力あるものも、
高いものも深いものも、その他どんな被造物も、
わたしたちの主キリスト・イエスにおける神の愛から、
わたしたちを引き離すことはできないのである。

「豊かに蒔く者」                                コリント人への第2の手紙9:6~8

                                                                                                                                わたしの考えはこうである。少ししかまかない者は、少ししか刈り取らず、豊かにまく者は、豊かに刈り取ることになる。各自は惜しむ心からでなく、また、しいられてでもなく、自ら心で決めたとおりにすべきである。神は喜んで施す人を愛して下さるのである。神はあなたがたにあらゆる恵みを豊かに与え、あなたがたを常にすべてのことに満ち足らせ、すべての良いわざに富ませる力のあるかたなのである。                                   
種を蒔くということは、その種の花を見たい、実を収穫したいと言う目的の故です。蒔く事には意味があり、目標があります。私たちの目標は神様に喜ばれる実を結びたいと言うことになります。そして実を見るための小さな小さな作業ですが、それが無くては実を見る事はけして出来ません。自分の成果を求めるのではなく、神の成果を見い出す事が大切です。そうする事によって神様は必要な力を私達に与えてくださいます。私たちの存在理由は神にあるからです。私達の考えを絶対とし、私達が自ら神になってはいけません。神の目的に沿うなら、私たちに存在価値があるのです。                                                                                     家政婦さんが、家の主人に喜ばれようとして掃除をするなら良い掃除ができます。しかし、仕方なく無理やりさせられているならその掃除はいい加減なものになります。私も学生の時、普段は散らかっている部屋が、彼女が来るとなると徹底的に掃除をします。彼女にいい印象を与えたいからです。誰かに喜ばれたいと言う心になった時、本当に良い仕事ができるようになり、更に主人も喜んでくれるんです。

 

そこで、私たちの主である神様に喜んで貰いたいから、小さい事でも、あの事もこの事もしようと自ら進んで良いことをするなら必ず神様は、それをする力を与えて、報いてくださるのです。誰かの為に良いことをする事には限度があります。自分に余裕があれば少しは人のために何かをしてあげれるでしょう。ですが、人は誰でも施した事に見返りが無ければそう長くは続きません。しかし、誰にも見返りを求めないで善を施すなら、神様が必ずその見返りを与えてくださいます。人は、蒔いたとおりに刈り取るのです。                         

6:7 まちがってはいけない、神は侮られるようなかたではない。人は自分のまいたものを、刈り取ることになる。 6:8 すなわち、自分の肉にまく者は、肉から滅びを刈り取り、霊にまく者は、霊から永遠のいのちを刈り取るであろう。 6:9 わたしたちは、善を行うことに、うみ疲れてはならない。たゆまないでいると、時が来れば刈り取るようになる。                        ガラテヤ人への手紙6:7~9          

私たちは神様の手の中にあります。いくら神様を信じなくても、神様の手の中で神様を無視しているだけです。しかし神様の目的に沿って種を蒔くなら、その種を恵みの中で蒔く力が与えられて良い実を結ぶようにしてくださるのです。                                                                                                                 そのために、神様の戒めを守る事です。「神を愛し敬い、隣人を愛する」これを大切にして、小さな小さな種蒔き(善)であったとしても、実践するなら、実を結ばないものとはならないでしょう。豊かに蒔くのです。豊かに蒔くなら豊かに実ることでしょう。

 

 

 

 

 

信仰とは?                                     ヘブル人への手紙11:1

 さて、信仰とは、望んでいる事がらを確信し、まだ見ていない事実を確認することである。
鰯の頭日本には昔から「イワシの頭も信心から」と言う、ことわざがあります。柊を鰯の頭に挿して玄間の上に付けることで鬼を払う習慣で、つまらないものでも信じれば尊い信仰対象になるみたいな感じのことわざです。
 辞書には、信仰とは十分な理由証拠が有るという知性の判断によって生じる確信である。とあります。
信じるに値する根拠、証拠があり、それは雲を掴むような事柄ではなく確信に至る裏付け、納得のいく理論から、冷静に判断して信じることなのです。残念ながら鰯の頭は信仰にならないわけです。
キリスト信仰は、聖書に記しているキリストの預言とその歴史的事実に基づくものです。そして信じる人が聖書の通りにその事実を体験するという個人的な確信に及ぶのです。
ある、無神論学者が聖書のアラを探そうと調べた結果、信じざるおえなくなったという話を聞いた事があります。神は存在しないと言う根拠や証拠が無いのです。多くの人は神が存在しないと根拠無く信じている事になります。
さて、神への信仰の一つとして、神の人間に対する約束があります。その約束とは人類救済です。聖書の目的は一貫して救いについて約束しております。この約束に信憑性があるから信じるというのが信仰になります。そして、神への信頼を確信する事です。信仰とは神との信頼関係の中で大きくなります。すなわち「神は絶対にこの私を悪いようにはしない。私の事を命を掛けて愛してくださっている。」と神を良き方だと確信することです。これは個人的な聖霊の働きによるものです。
神を真実に求める人は神から来る聖霊があなたを確信へと導きます。信仰はそこから生まれてくるものなのです。神を求める信念は自分自身から出さなければなりませんが、神は信念を確信へと変えて下さいます。それは神がくださる特別な恵みになるのです。それが信仰になっていくのです。
信仰とは神の賜物ですが、求める人に必ず与えられます。どうぞ、信仰を求めて祈ってみてください。信仰は恐れを取り除き、自由になり、神の平安があなたを支配します。


過去のメッセージ

今週のメッセ-ジ2013年6月

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2013年6月30日 主日礼拝のメッセージ

「神が愛の源である」             ヨハネ第1の手紙4:7~10

4:7 愛する者たちよ。わたしたちは互に愛し合おうではないか。

       愛は、神から出たものなのである。

       すべて愛する者は、神から生れた者であって、神を知っている.

4:8 愛さない者は、神を知らない。神は愛である。

4:9 神はそのひとり子を世につかわし、

      彼によってわたしたちを生きるようにして下さった。

       それによって、わたしたちに対する神の愛が明らかにされたのである。

4:10 わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して下さって、

        わたしたちの罪のためにあがないの供え物として、

         御子をおつかわしになった。ここに愛がある。                                       

神は、この世に愛の必要性を教えてくださいました。

親の愛を受けて育つ子供は、愛豊かな人になります。同じように私達人間は神から生まれた神の子です。ですから父なる神の愛が必要なのです。親も人間ですから愛されることが必要な存在です。親も神に愛されて、その愛で子供を育て、隣人を愛するのです。人を愛する思いになるためには、まず、絶対的な父なる神様に愛されるという恵みが必要なのです。

そこで、神の愛を見るためにはイエス・キリストの十字架を知る事です。神を知らずして本当の愛を知る事はできないのです。神の愛はイエスキリストの十字架で現されました。この意味は聖書を通して歴史を知らないと理解し難いかもしれませんが、神の愛は理屈では計り知れないものです。愛されていることは体験することだからです。

愛の源は神にあります。人間をお造りになった神は、神に愛される事によって、人を更に新しく造り変えて下さるのです。私も考え方が180度変わりました。

神に愛されていることに気付いた時、私たち人間は愛し合うことが正しいと知ります。私達人間は皆、弱いです。愛されること無しには生きて行けないのです。どんなに強がっている人でも、いつかは自分の弱さを知ります。だからこそ、誰かに愛されていることが必要になります。またそれに気づかなければなりません。

人に愛を求めても、人は皆それぞれ自分のことで精一杯です。親でさえ子どもを犠牲にして自分の幸せを求めるご時世です。しかし、絶対に裏切らない神の愛はとてつもなく大きいのです。

その愛の源に近づきましょう。真実の神の愛があなたにもふれますように・・・・ きっとあなたは満たされます。 きっと生まれてきて良かったと喜びます。そうすれば、愛される事より、愛する事の必要を知ります。人は誰でも愛される事を望んでいます。それを満たす方が愛の源である神様だけなのです。

 愛は、まず相手を赦す事から始まります。赦すことは自分を潰す勇気です。自分を犠牲にして、相手にも平和をもたらせます。この赦しの力は神の愛から来るものなのです。それには、まず神の愛に触れる事が大切です。

聖霊により、神の愛があなたにも臨むのです。必ず神様に愛されていることを経験します。

神の愛を聖霊に求めていきましょう。

2013年6月22日 主日礼拝のメッセージ

「神の安息に入ろう」                             マタイによる福音書11:28~29

すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとにきなさい。あなたがたを休ませてあげよう。
 わたしは柔和で心のへりくだった者であるから、わたしのくびきを負うて、わたしに学びなさい。   そうすれば、あなたがたの魂に休みが与えられるであろう。

アナウンサーの辛坊治郎さんが転覆したヨットから救助されました。本当に良かったです。助けが来てくれるだろうか?死をも覚悟したと思います。「人知を尽くして天命を待つ」ということわざがありますが、もうどうにもならない時に、皆さんも一度や二度「神様助けて!」って心のなかで叫んだことが在るのではないでしょうか。これは人間が神様という存在の認識を潜在的にプログラムされているからだと思うのです。                                                                           そう言った絶体絶命な状況では無いにしても、手を尽くしたが何も変わらないと言って、人生に疲れを感じ、生きる望みを無くした人も、「神様~居られるなら私の悩み聞いてくださ~い」と心のなかで呟いたことがあると思います。私もまだ神様を知らない時に、「本当に神様が居られるなら、この願いを聞いてください。」と夜空に向かって呟いたことがあります。なんと、それは奇跡的に叶いました。今もその時の叶い(家内)は傍にあります。

神様の安息とは、休み、憩い、平穏、保護、助け、救い、慰め、回復、激励という事を含みます。安息の極みは神の国でありますが、現世においても、神の愛を体験できるということなのです。神は求める者に必ず答えてくださり、愛してくださっている事をわかるようにしてくださいます。この世であなたは「私は愛されている」と自信を持って言う相手が居られますか?親でも子を捨てる世の中です。そんな世の中でも神の愛は絶対に変わることが無いのです。神よりも強い人はいません。どんな人間でも強がり言って実は弱いものです。だからこそ強い神様の愛が必要なんです。強い方に愛されていることを知ることは強さと優しさを持つことができます。

この神様の愛に実際に触れ、休むことができるように約束してくださっています。誰でも神様の元に近づくなら、休みを得ることができるのです。この休みというのは先述した安息のことです。神に愛されていることの答えがあるのです。

まず心を神様に向ける事、祈り求める事です。必ず求める者には答えがあります。求めようとしない人にはけして答えはありません。私も昔は、神が愛なら、神様の方から現れてくれるだろう。それから信じようと傲慢に思ってましたが、もし神が居られるなら出会いたいと言う気持ちがありました。「こんな鈍感な私でも神様を知れるようにしてください」と一ヶ月毎日祈りました。それでも答えが無いのなら、もうやめようと思ってました。これが単なる宗教なら必要では無いからです。その結果、今は神様の為に働いています。

詩篇23篇1~3
 主はわたしの牧者であって、わたしには乏しいことがない。
  主はわたしを緑の牧場に伏させ、いこいのみぎわに伴われる。
 主はわたしの魂をいきかえらせ、み名のためにわたしを正しい道に導かれる。
 たといわたしは死の陰の谷を歩むとも、わざわいを恐れません。                      あなたがわたしと共におられるからです。                                    あなたのむちと、あなたのつえはわたしを慰めます。                                                                                                     いろんな困難な状況があろうとも神様が共に居てくださるので私は強くなれる、               神様に愛されていると言う安息から、強さや優しさ、本当の愛が現れてくるのです。               神様の言葉が本当かどうか実際に求めてみましょう。求める人は幸いです。

2013年6月16日 主日礼拝のメッセージ

「父なる神に帰る」                                       伝道の書12:7

ちりは、もとのように土に帰り、霊はこれを授けた神に帰る。

■今日は父の日ですが、まず私たちの創造主である霊の父である神に感謝しましょう。             最初、神様は人間を土のチリで造ったと聖書にあります。私たちの肉体が死んだ後、土の中に埋めると土に変わります。しかし最初の人間アダムを造られた時、神様は鼻の穴から息(霊)を吹き込んで生きたものとなったと記され(創世記2:7)、人間には霊が宿っています、この霊が、神に帰るのだと聖書は記しています。そしてアダム以後、生まれる子供にもアダムから分かれて霊が入っていきます。(伝道の書11:5)私達もその子孫です。

■最初の人間のアダムとエバが、神の言葉を守らず禁断の木の実を食べたがゆえ霊魂の死罪が入り込みました。それ以来人間は神の前から追い出される状態になりました。コレが人類の罪で、霊魂の死罪になるのです。しかし、この死罪を赦免されるようにしてくださったのが神の御子イエスキリストなのです。この方が私たちの死罪の身代わりとなり死んでくださったゆえ私たちは死罪が無くなり赦されたのです。それと同時に神のもとに、帰る事ができ、神の国に入れるようにしてくださったのです。また、この地上に置いても神の祝福(恵みと平安)の中で休みが与えられるのです。人は誰でも自分の安息を求めています。安息を得るために仕事をします。しかし霊と魂の安息は神が与えてくださいます。私たちにはそれが無ければならないのです。

■神から離縁されていた人間は、もう一度、お父さんと呼べるようにしてくださったのです。そして父なる神は「おかえり」と言って抱きしめてくれるのです。(ルカ15:11~)このチャンスは神を求める全ての人に与えられます。求めるものには神の愛を知る事ができる聖霊が送られるからです(ルカ11:13)。この聖霊により神様を「お父さん」と言える親密感が現れます。(ガラテヤ4:6)。これは事実なのです。

■私達は神様に愛されるために造られました。                                      神の愛を知るために人間は一度、アダムのゆえに罪というマイナスの領域に入りました。しかし、イエスキリストの故、罪が赦され、負の領域より”0”ゼロになったのです。しかし神様の愛は世のはじめから私達に対してプラスのままです。ですから神様に赦された私たちはゼロになり、神様に近づけば近づくほどプラスになって代えられていくのです。しかし、神様から離れていく人たちはマイナスのままなのです。神様の言葉を守り(互いに愛し合う)、全てを委ねて行くことがお父さんに近づくことなのです。                    そうすれば私たちは神の前にプラスになっていくのです。

2013年6月9日 主日礼拝のメッセージ

「相手を赦す決心」                               エペソ人への手紙4:32                                                                  互に情深く、あわれみ深い者となり、神がキリストにあってあなたがたをゆるして下さったように、 あなたがたも互にゆるし合いなさい。                                                                                                            愛するとは相手がどうであれその人を愛するということなのです。親が子供を愛する事、これは当然です。子供がどんな卑劣な犯罪を犯したとしてもその親にとっては、掛け替えのない子供なのです。神様も子供を愛するように私たちを愛しておられます。いがみ合っている二人を同じように愛しておられるのです。親としての神さまは、憎しみあっている二人を悲しく思われることでしょう。敵と言いましても、普段仲良くしていた人ほど些細な事で敵になりかねませんよね。(妬みが多くの原因)「昨日の友は今日の敵」だと言う言葉もあるくらいです。                                                              そこで、敵を愛する前に、相手を赦す決心が必要になります。それは神さまの望む平和を作るためです。赦すという事は、自分を犠牲にする事です。自分は悪くない、悪いのはあいつだと主張するところに平和は来ないのです。両方ともに自分の正しさを主張すれば平行線です。どちらかが折れないといけないのですが、多くの場合、相手に負けを認めさせる事が絶対できないプライドがあるのです。このプライドを自ら潰す事が、赦すという事につながります。                                               神の御子イエス様も神でありながらご自分の神のプライドを捨て、自分を砕くことによって、私達の犯した傲慢さと罪の赦しの代償となられたのです。この贖い主イエス様を通して神によって造られたけれど、罪のゆえ神から離縁していた私たちは、神の元に帰ることができるようになったのです。(これを福音と言います。)神自ら、人を赦すために自分の命を捨てられたのです。神の愛はイエス様を通しての赦しにあります。神はそれを通して、私たちに赦す事の手本を見せてくださいました。                          こんなに素晴らしい御方が私たちの創造主なる神様です。信じない理由は何処にあるのでしょうか?
使徒パウロも言ってます
もしあなたがたが、何かのことについて人をゆるすなら、わたしもまたゆるそう。そして、もしわたしが何かのことでゆるしたとすれば、それは、あなたがたのためにキリストのみまえでゆるしたのである。
そうするのは、サタンに欺かれることのないためである。わたしたちは、彼の策略を知らないわけではない。                                                        コリントⅡ2:10、11サタンすなわち悪魔は憎しみ合うようにこの世に働きます。私たちの背後で信頼関係を潰して人を傲慢にさせ神さまの御心からはずれさせようとします。そうして神様から引き離そうとします。               人の心の内が気になりますか?人がどうかではなくてまず自分が愛を示すためにまず「赦す決心」です。悪魔の思う壺にならないように、自分を砕くのです。人を変える事はできません。まず自分が変わる事だと神さまは教えておられます。                                                                                                                         私事ですが、かく言う私もこれを実践した事があります。「私の事で気分を悪くさせてしまって悪かった。すまなかった。」そうしたら平和がきました。互いに赦し合えました。心のわだかまりが一切取れ平安が支配したのです。私は祈りと自分を負ける事で平和を勝ちとったのです。 平和のための祈りは聴かれます。    皆様も是非実践してみてください。「赦す決心」。神さまは必ず聖霊を通して助けてくださいます。 

最後に 「平和を造り出す人は幸いです、神の子と呼ばれるでしょう。」 by Jesus                     

2013年6月02日 主日礼拝のメッセージ

「行うままにさせよ」                      ヨハネによる福音書22:10~13
イエスはわたしに言った、「この書の預言の言葉を封じてはならない。時が近づいているからである。
不義な者はさらに不義を行い、汚れた者はさらに汚れたことを行い、義なる者はさらに義を行い、      聖なる者はさらに聖なることを行うままにさせよ」。
「見よ、わたしはすぐに来る。報いを携えてきて、それぞれのしわざに応じて報いよう。
わたしはアルパであり、オメガである。最初の者であり、最後の者である。初めであり、終りである。                                                                         よく、聖書を知らない人がこのような質問をしてこられます。「神様が居るのなら、なぜ悪い人がこの世にいて悪いことが起こるのですか?」私はいつもこう答えます。「神は敢えてそうしておられます。」 イエスは2000年前に戦争や民族紛争、飢饉、自然災害は世の終わりに頻繁に起こるのだと預言しています。 事実、その通りに世の中は悪化するばかりです。                                                                                                           神が居られるなら・・・と言う人の思いの中には、神はこんな方だと勝手な理想を描いているだけなのです。しかし、聖書をよく見ると神の思いと人の思いは違います。神はこの世(宇宙、万物)を創造した目的、お考え、計画があるのだと教えています。わざわざ死ぬという弱い肉体で人を造られたのも意味があるのです。                                                                                                                                        少し話が飛びますが、アリスと言う音楽バンドが再結成し11枚目のニューアルバムを出されました。その中で「ボイジャー」と言う歌があります。この歌詞を聞いておりますとまさに聖書の事を知っているかのようです。「イブから始まりアダムの定め、そしてマリアから始まる。その意味、その理由はきっと解る日が来る。」というような歌詞があります。ボイジャーというのは長い道のりを旅する旅人と言う意味です。聖書は私たちの人生は旅人のようだと言ってます。最後にアベマリアの賛美歌が入っているのには驚きです。歌詞は谷村新司さんが作ったようですが、聖書を知らないと書けないと思います。旅人は肉体はこの世で行きますが死後何処に行くのか解るようになります。人の成功はやがて無くなるこの世には無く、私たちの求めるものは霊魂の行き着く神の国です。そこに成功があります。                                                                                                     神はなぜ人をこのように作ったのか?と言う質問は愚問です。なぜなら神が全主権を握った創造主で我々はその神によって造られた被造物だからです。ある茶碗が、陶芸家に「なぜこのように私を作ったのか」と言うこっけいな話なのです。                                                                                                                        神は敢えてこの世に悪を容認しております。なぜなら、神に従う人の正しさを悪のはびこるこの世の中で明らかにすることが神の御心です。最後の審判で善悪は明らかにされます。堕落した天使たちを裁く為に敢えてそうされているのです。(このあたりの話は相当深い話になります)しかし、私たちにとっては本当の神の愛を知ることのできるこの世となります。神が命を懸けて私たち人類を愛している表現をイエスキリストを通して実行されました。「神が肉体を持った人となり、人の罪の身代わりになって死ぬ」これが可能になる世界を作られたのです。 神の愛の大きさは命を懸けて現されました。これは神の国では死のない存在ですので絶対表現できない事なのです。肉体が死ぬというこの世だからこそ、それが可能なのです。私たちを神の子として迎える為、神の愛を命を懸けて表された神の御子イエス。私たちの神はこんなに素晴らしいのです。ゆえに私は心から神を信じ愛したいと思います。
マラ キ書3:14~18

あなたがたは言った、『神に仕える事はつまらない。われわれがその命令を守り、かつ万軍の主の前に、悲しんで歩いたからといって、なんの益があるか。 今われわれは高ぶる者を、祝福された者と思う。悪を行う者は栄えるばかりでなく、神を試みても罰せられない』」。
そのとき、主を恐れる者は互に語った。主は耳を傾けてこれを聞かれた。そして主を恐れる者、およびその名を心に留めている者のために、主の前に一つの覚え書がしるされた。 「万軍の主は言われる、彼らはわたしが手を下して事を行う日に、わたしの者となり、わたしの宝となる。また人が自分に仕える子をあわれむように、わたしは彼らをあわれむ。
その時あなたがたは、再び義人と悪人、神に仕える者と、仕えない者との区別を知るようになる。                                                                          更にある人は言うかもしれません。「神が愛なら何故みんなを無条件で救わないのか?と・・・・。」そもそも人が神に注文し文句を言う事、これが罪なのです。そのような質問をする人は神の上に自分を置いているからなのです。これを罪と言います。罪の意味は的外れです。(例えば人が造ったロボットが、人を支配する事)無条件で救うと的外れの堕落した天使と同じ人が現れるからなのです。素晴らしい神の国の建設のため、命を懸けて愛を示され信頼できる王様がイエス様です。誰でもイエスキリストの神の愛を受け入れ信頼するだけで救われると言う道が用意されたのです。                                                                                                          あなたも神様を「お父さん」と呼ぶことができ、神の国でお父さんの宝とされるのです。
 
                                      

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