2014年4月27日のメッセージ

「人間の存在理由」

 
私たち人間が何ゆえに存在しているのか?これ
は、大きな問題であり、答えを求めてこれを追
及した人はたくさんいましたが、人間の発生起
源が分からず、その目的も見出せないものだと
結論が出されているようです。

果たして人間は勝手に生まれたのであろうか?
進化論を学んできた私たちは、進化論、それが
正しいと信じさせられたきたので、当然そこに
は自然淘汰と言う言葉で片付けられてしまいま
す。偶然に発生した存在だと言うのです。他に
説明できる理論が見出せない故だと思いますが、
それなら、人間の存在理由など無いのです。

しかし、とてもそんなこと信じられない事です。
なぜなら、自然の法則はそのまま放って置けば
全ての物は朽ちてなくなる存在だからです。魚
が陸に上がって人間になったと言うのです。し
かも最初の生物の発生起源が解明できないので
す。

そして人間が勝手に出来たと言うのは、私たち
に存在理由が無いと言う事になります。しかし、
誰かが造ったというならそこに必ず理由や目的
があります。

私たちは理由も目的も無しに偶然に存在してい
るのだと信じさせられているのです。これが進
化論です。ダーウインも最期には進化論の信憑
性をあいまいにしています。

花蜂ランと言う花をご存知でしょうか?その花
は真ん中に蜂そっくりの形を形成しその上に他
の蜂をおびき寄せる香りまで出すと言うのです。
この花は、目(視覚)も鼻(嗅覚)も無いのに、
どうしてそんな事が分かるのでしょうか?まさ
しく誰かがそのように造らなければ出来ない証
拠なのです。

ヤゴが将来、空を飛ぶトンボになると誰が
教えたでしょう?渡り鳥や遡上するサケはGPS
や地図も磁石も無いのに元の場所に帰れるので
しょう?

人間の耳の中にある三半規管ってご存知ですか
?この構造を知れば自然に出来たと思えと言う
ほうがおかしいのです。

身の周りの自然を見て、神の創造無くしてはあ
りえない事がたくさんあります。たとえば地球
は奇跡の星です。このような星はまだ見つかっ
ていないのです。太陽からの距離が絶妙で、大
気や水があり、四季がある。月がある事、それ
ぞれ絶妙なバランスで存在するのです。これが
偶然に勝手に出来たと言うならそれこそ狂信的
です。

これらが勝手に出来たと言うなら、活版印刷工
場の活字をひっくり返してしまい、適当に並べ
たら、明日の新聞が出来ていたと言うくらいな
のです。

逆に進化論で説明できない多くの事柄がありま
す。それは恐竜と人間の足跡が一緒に見つかっ
ている事です。存在する時代が違うはずなのに
このような化石が出てくるのです。

科学的にも進化論はおかしいのです。

ある人は、進化するように何か大きな力が働い
ていると言う人もあります。その何か大きな力
を「サムシンググレート」と言われます。

聖書においては明快に、
「神は自分の形に似せて人を男と女に造った」
と記しております。人間だけは特別の存在で神
に似せて造られたのです。だから私たちは神の
姿として特別な存在なのです。動物の進化の延
長上に在るものでは無いのです。

私たちは、理由があって存在するのなら存在価
値があります。しかし、勝手に発生したと言う
なら価値が無いのです。命の尊さを明快に出来
ないのです。ですので、獣と同じように弱肉強
食の世界で、倫理道徳の無い食うか食われるか
命の尊厳など必要なしになります。

ある事件がアメリカでありました。銃を乱射し
て無差別に多くの人を殺したとのです。その犯
人は若い学生で周りの人が気に入らないと言う
理由で平気で殺したのです。彼の主張はこうで
した。偶然に生まれた私が、偶然に生まれた人
を殺して何が悪い?ライオンが生きるために弱
い動物を殺すことが赦されるが自然の法則なら、
進化した人間も同じではないかと言うのです。

しかし、この学生は刑務所で聖書を読み、神に
よって存在し神に愛されている事を知り得た後
は、刑務所で模範囚となり人生が変えられたそ
うです。

進化論から生まれる物の考え方は、人間の命の
尊厳を見出せず価値の無い存在に終わってしま
うのです。

では、創造主である神がおられるのか?

聖書は自然の様を見てでも神の存在を認めるこ
とが出来ると言います。ローマ人への手紙2:20

進化論は神が居ないという側に立ってこれが科
学だと信じているだけの妄信的な理論なのです。
なんの信憑性も無いのも事実です。

多くの人は、神のことを学んでも無いのに、神
様と言う存在に結論を出してしまっている事に
問題があります。本当に神がおられるなら出会
いたいと思う心があるはずだと思いますが、す
でに進化論ではそのように思い込まされている
のです。しかし、そのような人でも神社で手を
合わせるのです。

科学は別にしても、人間の創造者を知る事で、
自分と言う存在のアイデンテティーを見出すこ
とが出来るのです。ここが大切です。先ほどの
銃乱射の学生のような考え方をしてしまうのが
神無しの結果なのです。創造者である神様は、
私たちを愛する故に造られたのです。そして、
あなたをももれなく愛しておられます。

私の目には、あなたは高価で尊い。
あなたを愛している。   イザヤ43:3

この世では限りある命としての肉体を作られ愛
しておられますが、その中にある本当の私であ
る霊魂をさらに愛しておられるのです。

この世においては、創造者である神の元に帰る
ために霊魂の訓練があります。それは神の愛を
信じて、その神の愛によって生きることです。

それが霊と真でイエスキリストを信じると言う
事です。人間は神によって造られたので、神様
の手引きが必要です。それが聖書なのです。

「私はいったい誰か?」「何でここにいる?」
「私の価値は?」と言うアイデンテティーを確
立できる唯一の道なのです。それが無ければ生
きる理由、目的、価値を見出せずに存在する理
由がなくなるのです。

どうぞ、創造主の元に進まれるように心からお
勧めします。

By Tatsuo

 

2014年4月20日のメッセージ

「クリスチャンとは」

教会に行く前、クリスチャンと言うイメージは、
非常に特別な人で倫理道徳の極めた人で俗世間か
ら足を洗った人だと言うイメージがあり、私のよ
うな自分のことしか考えない泥臭い人間なんてク
リスチャンにけして成れるものでは無いと勝手に
思い込んでいました。

実はクリスチャンと言う呼び方は、キリストを信じ
る人は、変わっているので信じない人たちが皮肉
でつけた呼び方です。

ですので、自分がクリスチャンですと言う言い
方はあまり好きではありません。
特に、私をよく知っている幼馴染はそのイメージ
は、まったく持たないでしょうね。(笑い)

しかし、神様が本当に居られる(宗教なら要らない)
というなら知りたいと思う心はありました。

クリスチャンと言う呼び方は、特別な人間のように
感じますが、何の事はないイエス・キリストを信じ
神の愛を受け入れた人のことを言います。
そして、自分が弱い汚い罪びとであることを自覚
した者であると言えます。ですから、後光をさして
悟りを開いた仏みたいな人間とか、良い事ができる
素晴らしい愛の深い人だからでなるものでは無いの
です。

その間逆で、罪深い自分であると知ったときにクリ
スチャンになれるのです。なぜなら自分が罪びとと
気づかない限りイエス様のところへ行く必要性が無
いからです。自分が正しいとする人はイエス様を必
要としません。しかし聖書はそれを罪と言うのです。

罪とは被造物の人間が創造主の神を無視して自分を
正しいとすることです。

私が教会に行きだした時、確かに親切で優しい方が
たくさんおられました。しかしそうでない人もいま
したので、がっかりもしました。牧師にこう教えら
れました。教会は罪びとが集まるところです。互い
に裁かないようにしましょう。みんな神様に赦され
た罪人ですから、誰も裁く事はできません。神様が
赦されたので互いに赦し合いましょう。

ですのでクリスチャンは偉くもなんとも無いのです。
人から尊敬されるような存在ではないのです。

私は、植木の仕事をしていますので殺虫剤を撒いて
消毒もしますが、頼まれたお客さんの前でまだ生き
ている毛虫を発見するとすぐにはさみで潰して殺し
ます。そうするとお客さんは「東さんは、クリスチ
ャンなのに~」と言われたことがあります。消毒を
頼んだお客さんにそんな事を言われても困ってしま
いますが、そのようなイメージを持たれるんですね。

クリスチャンは普通の人間です。ゼロからプラスに
向上した人間ではなく、マイナスからゼロに戻され
た人間なのです。アダムとエバの始めの罪の無い元
の存在に戻ったと言う事なのです。そして神の愛と
言葉によって神の子になるべくプラスに成長してい
くのです。

愛されていることを知り、愛することの必要性を神
から学び、失敗しながら訓練され成長し神の子にな
るのです。

私も牧師でありながらも、一神の子として日々訓練中
なのです。

そして、私たちは何処から来て、何ゆえに生きて、
何処へ行こうとしているのか知っている人間です。

簡単に言えば、「本当の神様を知った人間」

それがクリスチャンです。
ByTatsuo

 

 

   復活のメッセージ

「聖書の約束は復活です!」

 

わたしの父のみこころは、子を見て信じる者が、
ことごとく永遠の命を得ることなのである。
そして、わたしはその人々を
終りの日によみがえらせるであろう」。

           ヨハネによる福音書 6:40

 

兄弟たちよ。眠っている人々については、
無知でいてもらいたくない。
望みを持たない外の人々のように、
あなたがたが悲しむことのないためである。
わたしたちが信じているように、
イエスが死んで復活されたからには、
同様に神はイエスにあって眠っている人々をも、
イエスと一緒に導き出して下さるであろう。
わたしたちは主の言葉によって言うが、
生きながらえて主の来臨の時まで残るわたしたちが、
眠った人々より先になることは、
決してないであろう。
すなわち、主ご自身が天使のかしらの声と
神のラッパの鳴り響くうちに、合図の声で、
天から下ってこられる。その時、キリストにあって
死んだ人々が、まず最初によみがえり、
それから生き残っているわたしたちが、
彼らと共に雲に包まれて引き上げられ、
空中で主に会い、こうして、
いつも主と共にいるであろう。
だから、あなたがたは、これらの言葉をもって
互に慰め合いなさい。

   テサロニケ人への第1の手紙4:13~18

 

また見ていると、かず多くの座があり、
その上に人々がすわっていた。そして、
彼らにさばきの権が与えられていた。
また、イエスのあかしをし神の言を
伝えたために首を切られた人々の霊がそこにおり、
また、獣をもその像をも拝まず、
その刻印を額や手に受けることをしなかった
人々がいた。彼らは生きかえって、
キリストと共に千年の間、支配した。
(それ以外の死人は、千年の期間が
終るまで生きかえらなかった。)
これが第一の復活である。
この第一の復活にあずかる者は、
さいわいな者であり、また聖なる者である。
この人たちに対しては、
第二の死はなんの力もない。
彼らは神とキリストとの祭司となり、
キリストと共に千年の間、支配する。

          ヨハネの黙示録 20:4~6

 

このような、聖書の言葉を並べると神話やおとぎ話
のように聞こえるかも知れませんが、この復活信仰
が聖書が約束する希望です。多くの殉教者はこの復
活信仰の希望を信じていたのです。

聖書が語るには

この世はどんどん悪くなります。愛も冷えてゆきます。
戦争も、天変地異も起こります。そんな時、
キリストは再臨すると約束されております。
下にある絵のように空に現れます。
その後キリストが支配する1000年王国が現れます。

復活してキリストと共に支配するとあります。
これが最初に復活する人です。

第2の復活はすべての人が復活します。
最後の裁きを受けるときです。その時キリストを
信じた人は罪赦され、信じない人は第2の死が適応され
ます。それは永遠の地獄と言う場所です。

このような結果にならないように今のうちに
どうぞ、準備してイエスキリストの元に参りましょう。

信じられないと言う事でしょうけれども、本当だったら
取り返しのつかないことになります。

聖書のこの預言の言葉は9割がた成就してきました。
この最後の預言も成就しないはずが無いのです。

お近くの教会へどうぞ確認してください。
本当かどうか求める人は幸いです。

神さまの導きがありますように。

 

 

イエス

HAPPY EASTER!

4月20日はイースターです。

キリストの復活をお祝いする日でございます。

お近くのキリスト教会へお出かけください。

 

 

 

2014年4月13日のメッセージ

「キリストの受難」

詩篇22編1~3【口語訳】

 聖歌隊の指揮者によってあけぼののめじかのしらべにあわせてうたわせたダビデの歌

 わが神、わが神、なにゆえわたしを捨てられるのですか。なにゆえ遠く離れてわたしを助けず、わたしの嘆きの言葉を聞かれないのですか。 わが神よ、わたしが昼よばわっても、あなたは答えられず、夜よばわっても平安を得ません。 しかしイスラエルのさんびの上に座しておられる/あなたは聖なるおかたです

「わが神、わが神、なにゆえ私を捨てられるのですか?」

十字架の上で語られたイエスキリストの言葉です。この言葉、実は詩篇22編の冒頭の御言葉です。キリストのこの世に降りてこられる約1000年前にイスラエルの王ダビデによって書かれたものですが、この詩篇22編には、明快に十字架の預言が書かれております。イエス様は明らかに、今この詩篇22編が成就していると言う事を宣言していると言ってもおかしくないのです。

ある宗教家がこの言葉を聞いて「キリストが神に見放されたではないか、彼は神の子では無い!」と断言されたのですが、この言葉の本当の意味を知らないが故に断言したと言えます。

イエスがキリスト(救世主)であることは何が証明するのか?それは旧約聖書(ユダヤ人の聖書)に書かれている400余りのキリストについて書かれている預言が全部当てはまるのがまさしくこの方なのです。それはありえない確立なのです。それが証明です。

イエス様はこの文頭の言葉をアラム語で「エリ エリ レマ サバクタニ」と叫ばれました。いろんな解釈がされますが、詩篇22編を叫ばれ、今預言が成就したことを示唆されていると言っても過言では無いと思うのです。キリストは十字架にかかるために来たのだと自らの定めを覚悟されていたのですから、このような言葉は不信仰極まりない言葉になります。

しかし、詩篇22編が成就するという言葉ならこれはまさしく神の御業なのです。神の深い愛と計画に基づいてなされたのです。特に「着物をくじで分ける」などの預言はここに成就します。そしてこの22編の最後には神の救いの希望があからさまに讃美されております。

十字架の御業は私たちを「死ぬほど愛しているよ!」と言う神様の表現なのです。そう、あなたのためにも十字架の上で苦しみ耐えられたのです。そんな方が私たちの神様なのです。偉そうに「私が神だから言うことを聞け、言うことを聞かないなら地獄だぞ!」なんて脅す神ではなくて、まず、私たちに愛を示されたのです。そして私たちがその愛に触れることを待っておられます。それは無理やりなやり方ではないのです。

このような、すばらしい方が私たちの造り主、神であるのです。信じる事に躊躇することがあるでしょうか?神の深い愛を受け入れる方は幸いです。

良ければ、20年前に作った私のオリジナルの曲を聴いてください。

オリジナル讃美 「詩篇22編」 クリック!

 

 

 

2014年4月6日のメッセージ

「十字架の意味」

来週は全世界でキリストの受難週になります。 「パッション」という映画を見られたでしょうか? 強烈なキリストの受難シーンがありましたが、 これを見たとき涙が溢れて止まりませんでした。 その涙は深い神の愛と情熱に感動しての涙です。 あの映画で一番印象に残ったシーンは磔刑前に イエス様が鞭で打たれるシーンでした。 肉は引き裂かれて血の海になり、気が狂いそうな 痛みに耐えられたのは一途なわたしたち人類への 愛と情熱を感じたのです。キリストの受難

これを見てから、映画館の前で教会の案内を配布 しました。キリストの十字架の意味を知りたいと 思いませんか?と声をかけながら配りました。

泣いて出てくる人は間違いなくクリスチャンでし た。しかし、多くの人は「気持ち悪かった」とか 「えぐかったね」と気分が悪そうで嫌な感じでし た。確かに理由を知らずしてはわからないことで す。

もし、あなたの犯罪のために自分の身代わりにお 父さんがムチ打たれていたらどう思いますか?こ れは言葉で表せない出来事になります。

最近の若い子がファッションで十字架やドクロの 絵を黒ずくめの中につけています。恐ろしさの印 象を与えて強がっているのでしょうか、わかりま せんが、十字架は本来一番最も重い罪の刑罰です。 かっこいいものでも、美しいものでもありません。 またクリスチャンは十字架を拝んでいるわけでも ありません。十字架の意味は悪いイメージしか出 てこないものなのです。

わたしが老人施設で働いていた時がありまして、 そのときにわたしの話を聞いて洗礼を受けられ救 われたおばあちゃんの家に小さな仏壇があったの で処分して欲しいとお願いされたのです。変わり に拝む十字架をおいて欲しいと言われましたが、 日本人は何か拝む対象が無いとしっくりこないん でしょうね。拝む方は天地に満ちておられてどこ でも拝むことができますよとお伝えしました。 しかし、仏壇を処分できるのにはすごい信仰だと 感心しました。確かに神様は人間の作った箱の中 にお住まいになる方ではありません。

それではクリスチャンは十字架をどう見ているの でしょうか?

それは一言で言うなら「神の愛」です。

十字架そのものを見ているのではなくて、神が人 の肉体を持ってこの世に降りてこられたのは、わ たしたちの身代わりとなって死ぬためだったので す。その事柄を神の愛として受け止めているので す。

なぜ、神さまがわたしたちのために死ななければ ならないの?と疑問に思われると思いますが、わ たしたちの最初の人であるアダムとエバは神の前 に大きな死罪を犯したのです。食べたら死ぬと言 われたのにそれを食べて神様の言うことを無視し たのです。それがわたしたちなのです。そうあな たもアダムの子で神から見れば皆アダムとエバな のです。神のようになりたいと気もちがあったの です。神を無視して自分の好きなように生きたい と思ったこと。これを罪と言うのです。神によっ て作られた人が神のルールを無視した事で死罪が 確定したのです。肉体の死では無く霊魂の死、完 全な滅亡であったのです。

それは、わたしたちにはわからなかったこととし ても、自分が神の前に立ったとき自分には罪が無 いと言い切れるでしょうか?罪とは愛の関係を壊 すことです。わたしたちは殺人を犯していなくて も心の中で人を憎むだけで罪なのです。行動に移 していないだけで罪を犯す思考で罪びとなのです。

その罪を持っては死ぬだけの存在が、神の国に生 かせて下さる方法が提示されたのです。それがイ エスキリストの十字架の死なのです。

キリストの十字架の苦しみは他ならぬあなたのた めでもあるのです。そこまでしてまでもわたした ちを死から救いたいと言う情熱が神の愛です。

神は、ねたむほどにわたし達の内に住まわせた霊 を愛しておられると言われます。

神がわたし達の至らなさを自分の苦しみで、帳消 しにしてくださったのです。いったい誰が訴える と言うのでしょう。それは一緒に罪を犯させた堕 落した天使すなわち悪魔なのです。悪魔を面前で 裁くためにも神様は自分の決められた約束を守ら れる方なのです。

キリストの十字架で悪魔がわたし達の死罪を訴え る事ができなくなったのです。キリストの十字架 を信じる事しか救いの道は無いのです。

十字架を通して神の愛に近ずく人は幸いです。

ヨハネ第1の手紙4:9~10

神はその一人子を世につかわし、彼によってわた したちを生きるようにしてくださった。それによ ってわたしたちに対する神の愛が明らかにされた のである。わたしたちが神を愛したのではなく、 神が私たちを愛してくださって、わたし達の罪の 贖い(身代わりとなる)の供え物として御子をお つかわしになった。ここに神の愛がある。

キリスト教は良い事をするための単なる倫理道徳 の教えでは無く、神様との関係を正しくするため の契約であり、それによって人が神の愛を知り、 神の前に正しく生き、互いに愛し合うことを必要 と知ることなのです。

多くの人は神様を知らなくても愛することが正し いことを知っています。しかし、それを実行する意思 感情、知識が無いのです。キリストの十字架を通してそ れを知り、完成されていくのです。