2014年3月30日のメッセージ

「神の御言葉を喜ぼう。」

詩編1:1~3

悪しき者のはかりごとに歩まず、罪びとの
道に立たず、あざける者の座にすわらぬ人
はさいわいである。
このような人は主のおきてをよろこび、昼
も夜もそのおきてを思う。このような人は
流れのほとりに植えられた木の/時が来る
と実を結び、その葉もしぼまないように、
そのなすところは皆栄える。

聞き上手は話し上手とよく言いますが
人の話をよく聞くことでその人をよく知り、
そうしてその人の話を理解して接す
る事で信頼が生まれてくると思います。

ついつい自分の話ばかりして、聞いてもら
おうと自己アピールしますが、まずは相手
の事をよく知るために相手の言葉を聞く事
が大切です。人の話が始まると次に何を言
おうか考えているような人が多いんです。

神様により愛されるためには、神様の事を
よく知らなければなりません。神様の言葉
を聴く者にならなければなりません。聞く
(hear)では無くて聴く(listen)の方です。
ただ単に聞くのではなく、注意深く真剣に
聴き入る事なのです。

そして、神の言葉を黙想するのです。黙想
(メディテイション)とは、同意語で反芻
(ラミネイション)すると言う言葉にも使
われます。牛の草の食べ方は何度も食べて
は胃から口に戻して噛むのです。重ねて思
い返すことです。そうすることで自分の人
生の考え方の基盤を根本的に変える事が出
来ます。神様の考えに近づくわけです。
それが自分の命に直結するのです。

私が神様を信じだした頃、聖書を読むのが
嬉しくて嬉しくて朝の通勤ラッシュの電車
中で嬉しくて感動して涙をこぼしながら読
んでおりました。本物の神に出会い、神の
言葉に触れる事は最高の宝を得た気持ちで
だったんです。

ヤコブ1:21~22
 
ですから、すべての汚れやあふれる悪を捨
て去り、心に植えつけられたみことばを、
すなおに受け入れなさい。みことばは、あ
なたがたのたましいを救うことができます。
また、みことばを実行する人になりなさい。
自分を欺いて、ただ聞くだけの者であって
はいけません。

自分の死活問題になる話でリアルな事と
して話を聴く人は注意深く真剣に聞きます。
しかし、これは別に聞く必要が無いと判断
すると聞いてても聞いてないのです。

まさに馬耳東風です。

人間は神によって存在すると悟れば、神の
言葉に喜びながら真剣に耳を傾けるのです。

例えば私が永遠の命とか、天国の話をしま
すが、知らない多くの人は絵空事でまともに聞か
ないのです。100円で駄菓子屋に行く子
供に100万円の小切手を渡すようなもの
です。人間の小さな脳で決めつけては損を
するだけなのです。

だからこそ、イエスさまは「聴く耳のある
ものは聴くが良い」とおっしゃったのです。
神の約束を信じ求める人には聴くことが赦
されて求めない人には聴くことができない
のです。

そして、神を愛するとはその戒めを守る事
であるとおっしゃいます。神の語られた言
葉を真剣に自分に吟味させるなら、水の耐
えることのない場所に植えられた木のよう
に豊かな実を結ぶようになるのです。神の
声に従おうとする者には、実を結ぶために
神は私達に必要なものを備えてくださる方
なのです。

その最大の実が「愛」なのです。

結果、自分の損得勘定だけで生きるのでは
無く「愛する事」を大切にしたいと心に刻
み込むことになります。

神様の御言葉を自分に吟味させる事で私た
ちは、神の子へと完成されていくのです。

 

2014年3月23日のメッセージ

「光に照らされよう」

ヨハネによる福音書3:16~21

神は、実に、そのひとり子をお与えになった
ほどに、世を愛された。それは御子を信じる
者が、ひとりとして滅びることなく、永遠の
いのちを持つためである。神が御子を世に遣
わされたのは、世をさばくためではなく、御
子によって世が救われるためである。
御子を信じる者はさばかれない。信じない者
は神のひとり子の御名を信じなかったので、
すでにさばかれている。
そのさばきというのは、こうである。光が世
に来ているのに、人々は光よりもやみを愛し
た。その行いが悪かったからである。
悪いことをする者は光を憎み、その行いが明
るみに出されることを恐れて、光のほうに来
ない。しかし、真理を行う者は、光のほうに
来る。その行いが神にあってなされたことが
明らかにされるためである。

①光に照らされる

最近、6畳の居間に12畳用のLED の電灯に
交換しました。蛍光灯の寿命が来たのですが、
特殊な蛍光灯でかなり高かったので、安いLED
を探しました。早速使ってみましたが非常に
明るく本も見やすくなりました。しかし、汚
いところが目立つようになったのです。慌て
て掃除をしたのです。

光に照らされると目に見えなかった汚い部分
が見えるようになります。それまで、わかっ
ていたのですがあまり人目に付かないからい
いかなと思っていたのですが明るくされると
これは恥ずかしいのです。

イエスキリストは全ての人を照らす真の光だ
と言います。

光が射すと、暗闇の中で分からなかった事が
あからさまにされます。自分の汚れている部
分が分からずにいた事に気づくのです。光に
照らされる事で、自分を掃除する人は幸いで
す。光に近づくことができるからです。

「白い巨塔」というドラマが流行りましたが
病院の保身ゆえの隠蔽工作の話です。人は誰
でも良心があり正義感があります。しかし、
明るみにそういう正論を言っていると生きて
いけない事情が必ずどこにでもあるのです。

闇の中でも既に自分の汚さを分かっている人
は(自分が分かっていて悪を行っている人)
は中々暗闇から出ようとしないのです。その
回数が増えれば増えるほど汚さが麻痺して当
たり前のようになり、その人を蝕んでいきま
す。それは最後には自分が生きていくための
正当化さえするのです。それが当たり前にな
れば、もしあなたがその病院のスタッフなら
どうでしょうか?

その悪の正当化は暗闇から光を憎み寄せ付け
ないのです。逆に、自分を正当化するために
光の存在を陥れようとします。これが悪魔の
本質です。私たちは暗闇で同じ穴のムジナに
なってはいけないのです。悪魔は人の実生活
の弱みに付け込み、光の方に行かないように
働きかけます。

こういう目立った罪は無いにしても、人は年
を取れば取るほどに見えない罪の自覚が増え
ます。全知全能の神の前で私には罪が無いと
言い切れる人がいるでしょうか?私ももちろ
ん恥ずかしいほどの立派な罪人なのです。し
かし赦された罪人となったのです。

②赦される神の愛を受ける

光に照らされる時、私たちは自分の汚さをも
っと知ることになります。神の御言葉によっ
て裁かれるのです。もし、自分を砕き神の前
に近づくならイエス様はそんなあなたのため
にこう言ってくださいます。

「私は貴方を決して裁かない、あなたの罪の
ために身代わりとなったのですから。安心し
て私の下に来て休みなさい。」

と言ってくださるのです。

赦されたなら、その人の罪悪を帳消しにして
リセットボタンを押されたようなものです。
新しく生まれ変われるのです。

この赦しを受けるために、自分が赦されるべ
き人間だと知る必要があります。闇な中から
出ようとしない人は自分の汚い部分をさらけ
出せず、常に自分が正しいと正当化しようと
する傲慢さが、プライドが、神の光に近づこ
うとさせないのです。特に真面目に一生懸命
努力して自分の力で自分を築き上げた人ほど
自分を信じて、神様の御言葉に耳を貸すどこ
ろか自分の正しさを押し付けます。私も神様
を紹介するのにお勧めしますが、決して自分
の考えではありません。神様の恵みを伝えて
いるだけなのです。イエスさまは「聞く耳の
あるものは聞きなさい」と言われます。

神様は闇の中から出て来て、私の下に来なさ
いとおっしゃっているのです。アダムは罪を
犯したゆえ隠れました。しかし今や隠れない
で赦してくださる神の近くに行く事これが人
生の成功者になれるのです。人生の成功者と
は自分の考えを捨てて神の元に帰ることです。

③自分を自分で砕く

神様は、自分を崩し謙遜なる者に恵みをたま
います。それは自分の立場と位置をわきまえ
た人なのです。

陶器が陶器師に「なぜお前は俺をこんな風に
作ったのか?」と文句を言えば陶器師は思い
のままにこの陶器を処分するでしょう。陶器
師には造り主として権限があるのです。創造
神の視点に立って物事を考えると私たちが神
の前にどのような存在かはお分かり頂けるこ
とと思います。

多くの人は自分中心で神を見ます。自分の理
想の神様を想像して自分に都合の良い神を勝
手に作り出すのです。これが聖書の言う罪な
のです。神様は「自ら有って有る方」だと申
されます。この世は創造神が中心なのです。

創造神に向かって、文句を言うあなた。また、
神が愛なら信じなくても黙っていれば救って
くれると勝手な事を思うあなた。それは完全
に間違っているのです。(私も初めはそう思
ってました。)

神様の意思に沿わなければ私たちの存在価値
が無いのです。それを聞いて怒る人がいます。
「そんな神なら要らない」と、しかしその人
は理想の神様を勝手に描いているだけです。
神は私たちの想像の産物では無く、自ら存在
されるお方なのです。それが分かった時、素
晴らしい神の恵みと平安が支配するのです。

これは、人間が高慢にならずに神を愛して、
人を愛する神の国の住人となるために必要な
神の御旨なのです。全ての人が人として生き
る存在価値は神様に掛かっております。私た
ちが神の光に照らされなければ、我々は闇の
中のままで、時が来ればこの闇は処分される
だけなのです。それが聖書の神のご計画です。

ですから、わたしたたちは闇から脱出するた
めに光の元へ、主イエス様の元へと近づきま
しょう。私たちが近づくなら神様も近づいて
くださいます。しかし、拒絶し離れようとす
るなら、神様から遠ざかるだけなのです。

ぜひ、闇から脱出するために、光の神に近づ
きましょう。自分の汚い部分を見つけ出し洗
う人は幸いです。まずはキリスト教会へ集う
ことからです。御言葉を聞く耳を持つことです。

そして神を信じていると言うあなたも日々、
神をそばに感じてください。そうすればあな
たはこの世の勝利者(誰にも支配されず不安
な要素を取り除かれる)になれるのです。

ヤコブの手紙4:10
主の御前でへりくだりなさい。そうすれば、
主があなたがたを高くしてくださいます。

神様があなたを神の子として輝やかせて下さ
るのです。

 

 

 

2014年3月16日のメッセージ

「世の光となる」

マタイによる福音書5:14~16

あなたがたは、世の光である。山の上にあ
る町は隠れることができない。また、あか
りをつけて、それを枡の下におく者はいな
い。むしろ燭台の上において、家の中のす
べてのものを照させるのである。そのよう
に、あなたがたの光を人々の前に輝かし、
そして、人々があなたがたのよいおこない
を見て、天にいますあなたがたの父をあが
めるようにしなさい。

私たちは、青空が覆う昼間と暗闇の夜の中
を生活しておりますが、昼間は仕事に出て
活動し夜は家で休息をとります。昼間に活
動しているので昼間が本当の世界のように
見えますが、実は夜が本当の世界なのです。
地球は大気に覆われた奇跡の星です。これ
が無くなれば昼という存在はなく宇宙と言
う暗闇しか無く、夜が本当の世界なのです。
実に昼間は仮想空間と言う事になりますね。

夜は何も見えないので、活動できないので
すが、光があれば動くことが出来ます。夜
の航海は何を頼りにするのでしょうか?そ
れは光です。灯台の光、そして昔の人は星
を頼りに自分の位置を知り航海したのです。

この世は暗闇の中にあります。光が無けれ
ば何も見えないのです。多くの人は目が見
えるという事が当たり前に思っているかも
しれませんが、太陽の光が無いと目は全く
役立たずで、目が見えているのではなくて、
見える為に光に助けてもらっているのです。

その光の有難さも、昼間と言う光に満ちた
当たり前の世界にいるから光の有り難さに
気づけないのです。

昔、私は夜の森の中、キャンプ場の駐車場
に一人で車を止めに行って戻ってくるとき
懐中電灯を持ってくるのを忘れたのです。
引き返すにも、360度真っ暗で全く何も見
えません。これほど恐怖に襲われたことは
初めてでした。仕方がないので感で真っ直
ぐに歩きましたがすぐ右には崖があったの
で本当に怖かったです。しかし、しばらく
行けばキャンプ場の明かりが微かに見えま
した。この時の光の有り難さはなんとも言
えない平安を覚えました。このことで「光
の元へ」と言う曲を作りましたのです。

イエスさまは、「私は世の光です。私に従
って来る者は、闇の内を歩くことがなく命
の光を持つであろう」とおっしゃいました。

多くの人は、この闇の夜では真実が見えず
に方向が分からずに生きています。誰も自
分の命の確信が無く無意味にただ彷徨って
いるだけなのです。闇の中でどっちへ行っ
たらいいのか、手探りで答えを見いだせな
いままうろうろしているだけでそのうち死
がやってくるのです。年を取れば取るほど
この虚しさに襲われるのです。しかし、命
の光を見つけた人はもう迷うことが無いの
です。歩き方がわかるからです。つまづく
事が無くなるのです。その人は闇夜を航海
する灯台や星をとらえたのです。この世に
は真理(絶対なる事柄)がありません。た
だ、イエス様だけが真理であり、命であり、
道であり、光なのです。

私たちは闇夜でもう彷徨わなくて良いので
す。もちろん、あなたにもその光が差し込
んでいるのです。

そして、光を見てその方向へ向かうならば
命を得るのです。私達のために暗闇に月を
用意されました。月の光は太陽の光の反射、
それはイエスキリスト。キリストを見て父
なる神を見たのと同じ如く、今度は私たち
が神の霊によってこの世に輝く星ぼしとな
って神の栄光を現していくのです。父なる
神の輝きけるように恵みを与えてください
ます。溢れるばかりに恵みを与え続けて源
泉かけ流し温泉のようにあふれて溢れる恵
みを多くの人に与える事が出来るようにし
てくださる方なのです。

そのように神の恵みに満たされて生きる人
こそ真の礼拝者なのです。イエスさまは私
たちにも「世の光」になりなさい。とおっ
しゃいました。それが聖霊に満たされて生
きることなのです。それが神様の御心です。

「どうぞ、私を神の光で輝かせてください。
そのために神の霊によって満たしてくださ
い!」 日々求めつづけ、祈りましょう!
必ずあなたを新しくしてくださいます。

あなたを、溢れるほどに恵みを与えてくだ
さるのはあなたを通して神の素晴らしさを
お伝えしたいからです。自分に責める事が
あったとしても、私なんかと思わずに躊躇
せずにどうぞ求めてください。

闇の夜の光となれる力を与えてくださるの
は神様の御心なのです。

この世の暗闇の道標になるのです。

あなたの遣わされた場所で輝いてください。

まずは微笑みから・・・・

 

2014年3月9日のメッセージ

 

「恵みの管理人」

礼拝を捧げる救われた友を見るたび
に本当に嬉しく思います。友が神様
に恵まれているのを見てこちらも嬉
しくなってきます。

聖ペテロは私たちを
「恵みの管理人」と言います。

私たちは、クリスチャンだと外部の
人から宗教者のように思われがちで
すが、特別な存在ではありません。
宗教をしているつもりもありません。
私は宗教をしているつもりはありま
せん。生きておられる唯一の創造者
を信じているだけです。良いことを
行ったからクリスチャンでもありま
せん。

神様の愛と恵みを知り受け取った人
間。ただそれだけなのです。

こんな意地汚く、どうしようもない
ありのままの私を愛してくださる
天のお父さんだと知ったのです。
私たちを一方的に愛して下さり、
命の主権者である神様はキリストの
犠牲の故に命を保証してくださると
いう法則を啓示してくださったので
す。

神の前にマイナスであった私をゼロ
に戻してくださり更に聖霊によりて
プラスにしてくださる。

この世の存在理由が分かった。
生きる意味が分かった。
生きる価値があるのだと知った
生まれてきて良かった。
生きてて良かった。
大きな神の愛の中で命が与えられた
事を知り得たのです。

愛する人が、この事実を知り
神に恵まれることが私の喜びです。

私は「恵みの管理人」です。

日曜日の礼拝に出れない人も多くい
ます。日曜日の礼拝に参加する事で
救われるのではありません。
神はその人の信仰(神の愛を真実に
受けとめている関係)を見られます。

私はそんな人のためにもその人の
都合に合わせて家庭礼拝を積極的に
しています。その人が神の恵みを
ますます得ていただき分かち合うた
めです。「恵みの管理人」の仕事で
す。

自分の中に神様の恵がキープするこ
とがこの地上での信仰生活です。そ
して神がどれだけ大きな愛を私たち
に持っておられるかを多くの人に示
すこと。このことが神様の意図なの
です。私たちがキリストを通して掲
示される神の慈愛により完成されて
行き、一人でも多くの人が神様の
愛を知って神の元に帰る事が父の御
心です。

あなたの中に神の恵みがいつも管理
されているでしょうか?祈りと御言
葉と賛美で神様の恵みで満たされま
しょう。それは神様の御意志なので、そ
のために神様は必要な物をお与えに
なります。

あなたがたは自分の罪過と罪との中
に死んでいた者であって、そのころ
は、それらの罪の中にあってこの世
の流れに従い、空中の権威を持つ支
配者として今も不従順の子らの中に
働いている霊に従って、歩んでいま
した。私たちもみな、かつては不従
順の子らの中にあって、自分の肉の
欲の中に生き、肉と心の望むままを
行い、ほかの人たちと同じように、
生まれながら御怒りを受けるべき子
らでした。

しかし、あわれみ豊かな神は、私た
ちを愛してくださったその大きな愛
のゆえに、罪過の中に死んでいたこ
の私たちをキリストとともに生かし、
──あなたがたが救われたのは、た
だ恵みによるのです─キリスト・イ
エスにおいて、ともによみがえらせ、
ともに天の所にすわらせてください
ました。

それは、あとに来る世々において、
このすぐれて豊かな御恵みを、キリ
スト・イエスにおいて私たちに賜る
慈愛によって明らかにお示しになる
ためでした。

あなたがたは、恵みのゆえに、信仰
によって救われたのです。それは、
自分自身から出たことではなく、神
からの賜物です。行いによるのでは
ありません。だれも誇ることのない
ためです。

私たちは神の作品であって、良い行
いをするためにキリスト・イエスに
あって造られたのです。神は、私た
ちが良い行いに歩むように、その良
い行いをもあらかじめ備えてくださ
ったのです。

エペソ人への手紙 2:1~10

何よりもまず、互の愛を熱く保ちな
さい。愛は多くの罪をおおうもので
ある。不平を言わずに、互にもてな
し合いなさい。あなたがたは、それ
ぞれ賜物をいただいているのだから、
神のさまざまな恵みの良き管理人と
して、それをお互のために役立てる
べきである。

ペテロ第1の手紙 4:8~10