伝道所移転礼拝 036

2014年2月23日

「一美ちゃんお帰りなさい。」

事情により大阪へ転移されていた一美ちゃんが帰ってきました。この写真は11年前、西木辻で教会堂建築の合間に祈祷会の写真です。一緒に賛美している一美ちゃんは手前です。ご主人の昇天を機会に帰ってこられました。再会は何より嬉しいことです。お帰りなさい。

 

 

2014年2月23日のメッセージ

「子を育てる親の愛」

■子供の育て方20

1親が人の悪口を言うと、
 子供も悪口を言います。
2けなされて育つと、子どもは、
 人をけなすようになる
3とげとげした家庭で育つと、
 子どもは、乱暴になる
4不安な気持ちで育てると、
 子どもも不安になる
5「かわいそうな子だ」と言って育てると、
 子どもは、みじめな気持ちになる
6子どもを馬鹿にすると、
 引っ込みじあんな子になる
7親が他人をうらやんでばかりいると、
 子どもも人をうらむようになる
8叱りつけてばかりいると、子どもは
 「自分は悪い子なんだ」と思ってしまう

9励ましてあげれば、
 子どもは、自信をもつようになる
10広い心で接すれば、
 キレる子にはならない
11誉めてあげれば、
 子どもは明るい子に育つ
12愛してあげれば、
 子どもは人を愛することを学ぶ
13認めてあげれば、
 子どもは自分が好きになる
14見つめてあげれば、
 子どもは頑張り屋になる
15分かち合うことを教えれば、
 子どもは思いやりを学ぶ
16親が正直であれば、子どもは、
 正直であることの大切さを知る
17子どもに公平であれば、
 子どもは、正義感のなる子に育つ
18やさしく思いやりを持って育てれば、
 子どもは、やさしい子に育つ
19守ってあげれば、
 子どもは、強いに育つ
20和気あいあいとした家庭で育てば、
 子どもは、この世の中はいいところ
 だと 思えるようになる

アメリカインディアンの教え
ドロシー・ロー・ノルト/詩
(「子どもが育つ魔法の言葉」の著者)
ニッポン放送加藤諦三by名言

私もそうなんですが、日本ではこういう
教育を学校では教えてくれないんですね。
昔は子供の育て方を経験してきたおばあ
ちゃんがお嫁さんに教えてくれたもので
すが、核家族化で、おばあちゃんのアド
バイスも無くお嫁さんもなかなか受け入
れない事が多いですね。

子供の絶対的な指針というのは親にある
のですが、その親の姿を見て子供は育ち
ます。どんな親に育てられるかで決まる
のです。親が変わらなくてはダメなので
す。よく「うちの子は~」と愚痴をこぼ
す親は多いですが、それは自分の巻いた
種なんですね。子供は親の鏡だと言いま
す。私も息子の姿を見て反省させられる
事が多いです。

若い頃、私は子供の育て方なんてさっぱ
り分からず、勝手に大きくなるものだと
思っていました。

神様を信じてからは、神様が魂の父だと
知り、その父の愛を知り得たことで自分
も親としてこうでなければならないと言
う指針ができました。

聖書の御言葉は真理です。人間の取扱説
明書(マニュアル)と言っても過言では
ないです。文頭のような教えや、聖書の
御言葉も素晴らしいのですが実行するに
は、言葉を実行する力が必要なのです。
それが愛と言う燃料でありエネルギーな
のです。

子供を愛を持って育てるためには、まず
自分も愛されてきた一親の子であった事
に感謝できてこそなのです。

私事ですが母親が余命6ヶ月と言われて、
母親に対して今まで育ててくれた愛を思
い返しました。この世で一番私を愛して
くれた人です。半年間、私はできる限り
の事を母親にしました。これは私にとっ
て本当に幸いなことでした。

愛されている事を悟ったたとき、人は誰
かを愛する心が湧いてきます。子供に対
しても同じだと思うのです。親の愛が子
に、子の愛が孫にとリレーをするのが理
想です。しかし、子供を虐待する結果が
今の日本の子育て事情で、ニュースに流
れるのは氷山の一角でしょう。

愛されている恵みを所有した親が、子供
には必要なのです。ところがその愛が欠
乏している子供は愛を受け継げずに、ど
んどん愛は冷えてゆくのです。愛が無く
ても肉体は大きくなりますが、心は貧し
くなります。この愛を伝えて、愛のリレ
ーが耐えないようにするためには、誰で
あっても神の愛を受ける必要があるので
す。

神の愛は、親の愛です。子供のために自
分を犠牲にできる愛です。その愛を知る
事ができるようにしてくださったのがイ
エスキリストの十字架の出来事だったの
です。この愛を知り得る事で、素晴らし
い親子関係ができるのです。

文頭に語った良い教えは、理解できても
愛と言う燃料が無ければ作動できないの
です。

神は愛の源泉なのです。

愛する者たちよ、私たちは互いに会い合
おうではないか。愛は、神から出たもの
である、すべて愛する者は、神から生ま
れた者であって、神を知っている。愛さ
ない者は、神を知らない。神は愛である。

      ヨハネの第1の手紙4:7,8

 

 

 

 

2014年2月16日のメッセージ

 

「愛そうとする力が無い!」

私は神様をまだ知らなかった時
愛することは良いことだとわかっていても
愛する力、実行力がありませんでした。
ただ自分が生きるために、相手を大切にしな
いといけないとしか思っていませんでした。

しかし、神様を知るようになって愛すること
の大切さを知るようになりました。もちろん、
愛するとは誰であっても大切にすると言うこ
とです。男女の恋愛関係を超えるものです。

大げさですが自分を犠牲にして人のために愛
せるか?昔「愛と誠」と言うドラマがありま
したが若い青年は、愛する彼女のために、
「君のためなら死ねる」と言ったセリフを
今でも覚えております。死んだら、愛せない
じゃないか?と思った事があります。

人は命をかけて他人を愛せるか?そんな事は
綺麗事だと思っていました。関西の漫才風で
言うなら「そんなやつおらんやろ~」ですね。

私自身は、キリストを知る前は愛するなんて
みんな偽善者だ!必ずどこかに自分に利益が
あるはず。善を行う人には必ず裏で自分の利
益を計算しているものだと考えました。特に
私は商売をしておりましたので利益追求を求
めるために嫌な人でも頭を下げるのです。で
すので人に頭を下げるのは簡単にできる方で
した。しかしこれは業務上だったのですが慣
れてしまいますね。みなさんも、表面では近
所の人といい顔で挨拶するのに影では悪口言
ったり、批判したりしてないでしょうか?子
供がそれを聞くと同じように人を見下すよう
になりますので気をつけなくてはなりません。

また、自分の食べ物も無いのに、他人に分け
てあげられだろうか?自分の命が保証されな
いのに人の命を心配していられるか?自問自
答を繰り返すだけだったのです。

ドイツの哲学者エイリッヒフロムは言ました。
「その人が必要だから、その人を愛する。」
それは未熟であり、成熟した愛は
「その人を愛するから、その人を必要とする」

前者は自己利益の為の愛で、後者は相手を愛
するゆえに大切にすると言うのです。

私も、神を知らないときは前者の考え方だっ
たのでしょう。人を愛するのは自分の利益だ
けで図っていました。汚い自分に嫌気がさし
ますがみんな同じだと思っていました。

愛とは何か?実際、愛のお手本が無いのです。

しかし、神様は本当の愛を示してくださいま
した。それが御子イエスキリストをこの世に
送り、私たちの身代わりに死ぬために十字架
にかかりにこの世に肉体を取って来られたの
です。

わたしの事を命を捨てるまでして愛している
方がおられたのです。それが人の姿になって
来られた神であるイエスキリストなのです。
これを教会で教えられた時には、イエスキリ
ストとわたしが何の関係があるのか理解でき
ませんでしたが、ある時、キリストの絵を見
ていると「お前の為にも私は苦しんだんだ」
とわたしの心に響いたのです。その時涙を流
して神にリアルに感謝し嬉しくて泣いてしま
いました。私をどれほど愛してくださってい
たのかという事を実感したのです。これが聖
霊の働きだったのです。

神様が人間を神の国に置いて天使のように造
らなかったの理由がここキリストの十字架に
あります。敢えて、朽ちる弱い肉体で造られ
たのです。

それは、さておき
神が命をかけて愛されている事を現されたの
です。その愛によって互いに愛し合う信頼関
係を築き、平和な神の国を造る事が目的です。
それがキリストの十字架なのです。

私たちが、愛し合う力はここにあります。極
端な話、愛が無ければ、獣のようであって、
食うか食われるか。食われたら死んで、強い
ものだけが生き残る社会。それまでの世界に
なっていくのです。神無しの進化論はこうい
う社会にたどり着くのです。

しかし、本当の私たちである霊魂が生きるた
めには、必要なのが愛なのです。これは、非
常に重要なことです。神の愛という霊魂のエ
ネルギーが充填されなければいけないのです。

人間をお造りになった神は、人間の生き方と
して愛することをキリストの身を持って現さ
れたのです。

神を信じるとは、神の愛を受け入れてそれに
習う者になっていくということです。
真の礼拝者であるためには、この神の戒めを
守って実行しようとする力が必要なのです。

それが、造られた私たちが完成に向かう方法
なのです。

この実行力を与えてくださるのが、神から送
られる助け主=聖霊様なのです。

わたしたちの神は、なんと、素晴らしいお方
なのでしょう。この方を信じない理由はどこ
にも無いはずです。あるとすれば私たちの間
違った習慣や言い伝えであり、周りの人目を
気にすることです。先祖を敬うことは正しい
ことです。しかし、先祖も神に愛される存在
であり、神にはならないのです。人の目より
も神の目にかなうようにすれば私たちは本当
に価値ある生き方に変われるのです。

神の戒めである、愛する必要性を胸に刻み守
る時に、神は更にあなたのうちに聖霊により
て愛されている事を満たされていくのです。

あなたは恵みの管理者です。愛と恵みと平安
の中で立てられるのです。この喜びを伝える
事が私たち愛された者の使命なのです。

キリストは、私たちのために、ご自分のいの
ちをお捨てになりました。それによって私た
ちに愛がわかったのです。ですから私たちは、
兄弟のために、いのちを捨てるべきです。世
の富を持ちながら、兄弟が困っているのを見
ても、あわれみの心を閉ざすような者に、
どうして神の愛がとどまっているでしょう。
子どもたちよ。私たちは、ことばや口先だけ
で愛することをせず、行いと真実をもって愛
そうではありませんか。それによって、私た
ちは、自分が真理に属するものであることを
知り、そして、神の御前に心を安らかにされ
るのです。たとい自分の心が責めてもです。
なぜなら、神は私たちの心よりも大きく、そ
して何もかもご存じだからです。愛する者た
ち。もし自分の心に責められなければ、大胆
に神の御前に出ることができ、また求めるも
のは何でも神からいただくことができます。
なぜなら、私たちが神の命令を守り、神に喜
ばれることを行っているからです。神の命令
とは、私たちが御子イエス・キリストの御名
を信じ、キリストが命じられたとおりに、私
たちが互いに愛し合うことです。神の命令を
守る者は神のうちにおり、神もまたその人の
うちにおられます。神が私たちのうちにおら
れるということは、神が私たちに与えてくだ
さった聖霊によって知るのです。

        ヨハネ第1の手紙3:16~24

 

 

2014年2月9日のメッセージ

↓ここをクリックすればYOUTUBEで聞けます。

聖霊を送りたまえ

「聖霊を送りたまえ」

だれであっても、求める者は受け、
捜す者は見つけ出し、
たたく者には開かれます。
あなたがたの中で、
子どもが魚を下さいと言うときに、
魚の代わりに蛇を与えるような父親が、
いったいいるでしょうか。
卵を下さいと言うのに、
だれが、さそりを与えるでしょう。
してみると、あなたがたも、
悪い者ではあっても、
自分の子どもには良い物を
与えることを知っているのです。
とすれば、なおのこと、天の父が、
求める人たちに、どうして聖霊を
下さらないことがありましょう。

      ルカによる福音書11:10~13

聖霊をくださる事、

私たち人類を創造された父親の計画です。
すなわちそれは死にゆく私たちの霊魂に
永遠の命を与え神の子孫となる事、これ
が神のアブラハムへの約束なのです。
それは今から4000年前の話で、2000年後
聖書の400余箇所に記された預言通り
イエスキリストを通して実現されました。
(ガラテヤ書3:14)

また聖霊を知ろうとしない、求めようとしないから
与えられないとあります。
(ヨハネ福音書14:15~17)

聖霊が降れば、確かにイエスは主であると告白しまた、

賜物として異言や癒しのちからも現れます。
教会の働きも賜物です。

しかし、これは偽預言者でも現せるのです。
(マタイ7:11)

聖霊様の感化感動は外からも有りますが
内需する事は別だと言えます。
事実イエスを主だと告白したとしても
救いの確信がなく神様の恵がない人を
多く見ます。信仰を無くする人もいます。
それどころか賜物を現しながら残念なこ
とに信徒をいじめたりして罪を犯し、自
分を守るために信徒を陥れる牧師までい
るのです。

大切なことは、その人の実なのです。
普段の素行からわかるのです。聖霊の
実(ガラテヤ5:22)で一番大切なのは
「愛」です。これが神様の法なのです。

そして、御霊の実はいろいろ有りますが、
「自制」セルフコントロールです。
(ガラテヤ5:16~18)自分ではできない御
言葉を実行させようとする力です。これが
必要です。「敵をも愛せよ」とか言われて
も「そんなことできるか!」「ギャフンと
言わせてやる!」の答えはごく普通でしょ。
しかし、しようと思うことができなくなる
のが自制なのです。本当は悔しいけれど、
忍耐し御言葉を実行する方向にいくのです。
本当に敵を愛するのでは無くて御言葉に
従う力が結果として愛に結びつきます。
無理に愛そうとしているので偽善者のよう
な感じに思えますが、結果が大事なのです。

そして「罪と義と裁き」について
聖霊により明快にされます。
(ヨハネ福音書16:7~11)

「罪」キリストにおける神の愛を信じないこと。
「義」聖霊を受けて神の子とされる恵みを受ける事。
「裁」我々の為でなく悪魔の為である事。

更には、復活の力も聖霊にあります。

救いの保証は、
信じた後に受ける聖霊様にあるのです。

新しく生まれ変わるとはこのことなのです。
(ヨハネ3:3)

いかがでしょう、私たちには聖霊様、すな
わち助け主を送っていただくことがどれ
だけ大切な事なのかを・・・。

イエスを主だと告白できたから聖霊様が
来られてもう大丈夫と言うことは無いの
です。常に祈り求めることが必要です。
聖霊様は悲しんだり、消えたりすること
があるのです。だからこそ求め続けまし
ょう。

「聖霊を送りたまえ」

1 誰もが幸せを求めて探して生きている
見回しても、この世は暗闇荒れ果てて。
希望と喜びと愛に満ちた聖なる国
その御国への道は 主イエスにのみ
声を上げて御子を誉め歌おう主イエスを!
★聖霊を送りたまえ、
主の栄光をこの地上に
聖霊を満たしたまえ、
主の恵みをこの地上に!

2 主は私の慰め主、主は私の希望の道
主は私に喜び恵みを
与えてくださる永遠まで
主は私を愛して、主は私にちから与え
主の救いを宣べ伝えよ
声を上げて御名を誉め歌おう主イエスを!

Br求めよ主イエスを、主よ送りたまえ聖霊を

★聖霊を送りたまえ、主の栄光をこの地上に
聖霊を満たしたまえ、主の恵みをこの地上に!
聖霊を!聖霊を!聖霊を!送りたまえ!

この歌詞は
15年前にアメリカのクリブランドにある
LEEカレッジキャンパスクワイヤーの
ワーシップ曲を聞いておりましたら、
この歌詞を勝手に口ずさんでいました。
本当はこの歌詞の内容では無いのですが、
そのように思い巡らされて口から出たのです。
これを歌うと私は、全てのネガティブが
吹っ飛びます。神の恵で満たされます。

父なる神は

「求めてくるものには、なおさら聖霊を
贈らないはずがあろうか・・・」

誰でも求める者には必ず与えられます。

だからこそ、求め続けるべきだとお勧めします。

聖霊が与えられないのは求めようとしない
からだとイエスさまは言われます。

常に聖霊様を求める心を持つことを心からお勧めします。
神の真実の愛をこの地上に現し給え!
祈りながら歌っております。
みんなでこの歌を高らかに歌える日を
願っております。

聖霊によって私たちは新しく生まれ変わります。

神様の素晴らしい愛と恵みと平安があなたを包みます。

そうです。この世に新しく生きる力を得ましょう!

天国の力をこの地上に!

 

 

 

2014年日のメッセージ

真の礼拝者シリーズ

②他人を裁くな!

 さばいてはいけません。さばかれないためです。
 あなたがたがさばくとおりに、あなたがたもさばかれ、
 あなたがたが量るとおりに、あなたがたも量られるからです。
 また、なぜあなたは、兄弟の目の中のちりに目をつけるが、   
 自分の目の中の梁には気がつかないのですか。
 兄弟に向かって、『あなたの目のちりを取らせてください』
 などとどうして言うのですか。見なさい、
 自分の目には梁があるではありませんか。
 偽善者よ。まず自分の目から梁を取りのけなさい。
 そうすれば、はっきり見えて、兄弟の目からも、
 ちりを取り除くことができます。

                     マタイによる福音書7:1~5

ここで言う「裁いてはいけない」と言うのは、意味なく人の
上げ足をとったり、自分を正当化する為に相手を批判したり、
相手を傷つけるような事をしてはいけませんと言う意味です。

パリサイ人や律法学者のように、自分たちがさぞ偉いかのよ
うに無情に人を裁いていく様子がそれです。

もちろん、その後の御言葉にあるように、偽預言者を警戒
しなさい、聖なるものを犬にやるな、と批判することも神は
大切な部分として教えております。対人関係を保つためにも
警告は必要です。日本人は事勿れ主義の中であまり他人に干
渉しません。分かっていても目をつぶっていることが多いの
です。お互い様だと言うので寛容になれる事は良いと思いま
すが、いざこざを避けるために見て見ぬふりも多いでしょう。
際たる悪がいじめですね。

人は、自分を正当化するために人を批判し自分の正しさをア
ピールします。また、自分の権威を保つために相手の所為に
して他人を恐ろしいまでに裁きだすのです。

相手の事情を全く配慮せずに自分の基準で裁いていく、自分
の正しさは相手に通用するとは限りません。他人を裁くあな
たは自分の基準で人を判断しているのです。その人はいつの
間にか自分が神様になっているんですね。しかし、神は最後
にはあなたを裁かれる時が来るのです。

神様は「互いに赦し合いなさい」と言われました。神様は私
たちを造り生んだ本当の親です。子を持つ親の気持ちになれ
ばわかりますが、兄弟げんかの絶えない兄弟に願う事は仲良
くしてくれることです。父親である神様もそのように見てい
るわけです。

私が子供の時、弟と良く兄弟喧嘩をしましたが、母親はいつ
も「あんたら2人とも悪い」でした。「お前が悪い!いいや
お兄ちゃんの方が悪い!」との言い合いでした。

結局いつも、母親はお兄ちゃんだからと言う事で、私が謝っ
て終わらされていました。おかげで兄貴は損だが、強いほう
が謝れば和解できると言う方程式がいつの間にか私の心に
「先に謝る人が強い人なんだ」と言い聞かせておりました。
おかしなもので先に謝ると、必ず相手も謝りますね。

神様も親心として同じなのです。まず私たちは神様の前では
すべて不完全な者として誰にも裁く権利を与えていません。
不完全な者同士は赦しあうことしか出来ないのです。裁き合
うことでは平和は訪れませんが、赦し合うなら平安が訪れる
のです。

私たちの罪(不完全さ)はアダム以来、全人類に課せられて
います。その報酬は「死」です。肉体の死では無く、霊魂の
永遠の滅びです。死を選んだのはアダムなのです。神の言葉
を無視したのです。私たちはそのアダムの子孫なので全てに
死が課せられたのです。その死を御子イエスキリストの命と
引き換えに赦されたのです。

先ず神が、キリストのゆえに裁かないと言われたのです。

神が私達を裁かれないと言うなら私たちは誰を裁く事ができ
るでしょうか?私たちが神より偉いのでしょうか?自分の罪
が赦された事を知ったとき、人を裁く事ができなくなってし
まうのです。

神が人を裁かないと言うのに、私たちが人を裁くとはこれは
有り得ないことです。私たちは皆赦された罪人、罪人同士が
裁き合うのは滑稽な事です。私たちに託された詔はただ「私
が愛したように、互いに愛し合いなさい」「私が赦したよう
に互いに赦し合いなさい」

神が私たちをキリストの死のゆえに赦してくださっている、
この深い愛を知り、自分の罪を赦された恵みを知ったなら、
人の為に良いアプローチができるものなのです。目の梁を
取り除くとはそういうことです。

PS.赦すとは、その人の行った犯罪を見逃す事では無く、その
人が謝罪するなら憎しみや怒りの感情を放棄し、水に流すと
言うことです。神の愛で赦すのです。神の法で赦されても、
この世の中で生活する以上、この世の法律で服さなければい
けませんのでご注意ください。