2013年9月29日のメッセージ

「求める決心」

進化論を信じる人は、人間は偶然の存在です。
偶然の存在なら、弱肉強食の世界です。
殺しあっても誰も裁かれません。
人間は動物のうちのひと種類だからです。

アメリカで銃乱射事件で多くの人を射殺し
捕まった若者がいましたが、彼は進化論によって
偶然に出来た動物が殺しあっても何の不思議な事は
無いと思っていたそうです。

しかし、神があなたを造ったとなると、
それは特別なことです。意味があることです。

あなたは神に愛されるために生まれてきました。
創造主である神は人だけは特別に神の形に
かたどって、神の子としてなれるように造られました。

けして、神は思いつきで造ったのでは無く、
計画と目的と御心があっての事です。

神が私を愛されている?そんな事、ピンと来ないなあ。
と言われるのはもっともなことです。

神の愛を知るためにはまず、キリストの十字架です。
これは神の愛の具現化です。
古今東西、神は人類に実際に神の愛を示されたのです。
それも天地創造の前から計画されていたと聖書は言うのです。

しかし、これが理解できないのは当然です。
おとぎ話のようで現実とは思えない話です。

私達人間の知恵や常識を超越している事柄です。

「この世は自分の知恵で神を認めるに
 至らなかった。それは神の知恵にかなっている。
 そこで神は宣教の愚かさによって
 信じる者を救う事とされたのです。」Ⅰコリント書1:21

神の知恵は、人間を超越しております。
敢えて愚かな方法で信じる者を救うこととされました。
そこで神の思いは、神から送られる賜物によらなければ
理解できないことにされたのです。

その贈り物が、「聖霊」です。

十字架の意味も、神の愛も聖霊が判るように
してくださるのです。神の愛を知るためには、
聖霊が必要なのです。

「私達にくださった聖霊によって神の愛が
 私達の心に注がれているからである」ロ-マ書5:5

それでは、その聖霊は本当に来るのでしょうか?
どうしたら聖霊を送ってもらえるのでしょうか?

神は求めて来る者に、与えてくださると言う
約束があります。求めようとしないものには送られません。
ジッとしていては送ってくださらないのです。

「求めて来る者に聖霊をくださらないことがあろうか。」
 と神は伝えております。     ルカ福音書11:13

聖霊は神の愛を知る(体験)事のできる事実です。

「聖霊を求めようとも、見ようともしないから
 得ることが出来ない」と神は言っておられます。
               ヨハネ福音書14:17

では、神に愛されている事を知る方法は?

簡単に結論を言います。

神の愛を受けることが、できる道はただ1つだけです。
イエスキリストです。この方を知る事です。
この方を信じ、知る事ができるように神に願い求めること。

ただ、そしてこの決心により祈ることです。

「神を求めよう!」

私は友の勧めで教会に行きだした頃、なかなか理解出来
ないのでこのように毎日祈りました。

「こんな鈍感な私でも神様を判るようにしてください。
信じれるようにしてください。もし神が居られるというのなら
あなたを知りたい。出会いたい。」

それで、判らなかったらもう教会に行かないでおこうと
思い祈りましたが、神を否定できなくなり、神の愛も鈍感な私にも
判るように示されました。その結果、牧師になっております。

ある人は、イエスキリストの話を聞いても
信じる事が出来なかったと言うかも知れません。

また、ある人は、神が愛なら黙っていても救ってくれると思っていた。
(私も一時期そう思っていました。それは信仰では無いです。)

しかし、あなたは聞いたのに 何故、求めようと
しなかったのか?と問われる日が来るのです。

ただ、「求めよ、そうすれば与えられるだろう。
    探せ、そうすれば見つかるであろう。 
    門を叩け、そうすれば開けてもらえるだろう。
   
    父なる神は求めてくるものに
    良い物を与えてくださらないはずはない。」

と断言されています。      マタイ福音書7;7~12

是非、神の愛を求めてみて下さい。心からお勧めします。

 

2013年9月22日のメッセージ

「律法の要約」                                               
だから、何事でも人々からしてほしいと望むことは、
人々にもそのとおりにせよ。これが律法であり預言者である。

 マタイによる福音書7:12

私は外で植木の仕事をする日は必ず飲み物等を買いに
コンビニによく寄ります。特にセブンイレブンの珈琲は
安くて美味しいのでお気に入りです。

ある日、コンビニの駐車場でゴミ箱があるのにそこら中に
捨てている若者を見ました。その子に笑顔でこう言いました。
「自分の家にゴミを捨てられたら君はどう思う?」
「嫌だよね~」そうしたら、ゴミを拾ってゴミ箱に入れて
くれました。その子に注意する人は無かったのでしょう。
自分の為に注意してくれる人がいればありがたいですよね。

あるユダヤ人でない人が
ユダヤ人の著名な学者ヒルレルに質問しました。
「私が片足で立っている間に律法の全てを教えて下さい。」
「あなた自身の憎むことを、あなたの隣人にしてはならない
これが律法の全てで、他の言葉は注釈である」と答えました。
トビト書4:15にも「あなたの憎むことを誰にもしてはならない」
とあります。

これらは非常に消極的なとらえ方であると言えます。
常識的であり、何もしないでいれば良いと言うことになって
しまいます。

しかしイエス様は、より積極的な内容で語られました。

11節では天の父は求めてくるものに、良い物を与えられると言う
人との関わりの積極性を示しておられます。そのように
私達にも積極的な対人関係の善を要求されているのです。

それは天に宝を蓄えることであり(マタイ6:20)
天国においての報いを得るように勧めておられるのです。

この黄金率(ゴールデンルール)は山上の垂訓の総まとめです。
(マタイ5章からの内容)これが、聖書全体を示す要約であり、
イエス様が積極的な対神関係、対人関係を持つ事によって
律法の本来の目的に沿うように教えられたのです。
聖書は人間のマニュアルみたいな物です。取り扱い方を
間違うと正常な動作がのぞめないのです。

要するに聖書の教えるところは

自分が愛されたいなら、積極的に人を愛してゆきなさい。
そして自分のして欲しいと思う事を、他人にしていくのです。
対人関係を積極的な善を持って働きかけてゆくのです。
人に赦してもらいたいなら、まずあなたが赦しなさい。
人から愛されたいなら、あなたから愛しなさい。
自分が認められたいなら、相手を認めなさい。
自分が理解されたいなら、あなたが理解して上げなさい。
自分が尊敬されたいなら、相手を尊敬し、
自分が信頼されたいなら、相手を信頼し、
相手と平和を保ちたいなら、自分から平和を作り出します。
私達はこの力が与えられるように祈らなければなりません。

ついつい、人は自分を正当化し自分を固守しようとして相手に
要求し相手の所為にしがちです。そこで相手に要求する事を、
自分に要求するのです。自分のいたらなさを認めるのです。

私も、相手と仲違いした時に、まず相手の悪い事だけを主張せず
自分の悪かったところを謝ります。自分が悪い事を認めるのは
悔しい事かもしれません。しかし、謝ってほしいと願うなら
相手が怒っていることに対して謝るべきだと思います。人間は
完璧ではありません。必ず失敗するものです。しかし、失敗を修正
できる人は幸いです。

イエス様の十字架の愛に習い、平和を造り出すために自分を
犠牲にすることが求められているのです。

「自分の十字架を背負う」とはそういうことなのです。

愛するとは、自分が憎まれても、その人を憎み返さずにその人の
有益を求め、神が愛してくださったその人を受け入れることです。

ある人が言いました。「愛の反対は憎しみでなく、無関心である」。
何も考えないのが愛の欠落であり、積極的に善を持って相手と
関わってゆく事が愛の動機です。

聖書は言います
神があなたを愛されたように、あなた方も愛し合いなさい。

最後に、パウロもこのように語りました。

互に愛し合うことの外は、
 何人にも借りがあってはならない。
 人を愛する者は、律法を全うするのである。
 「姦淫するな、殺すな、盗むな、むさぼるな」など、
 そのほかに、どんな戒めがあっても、結局
 「自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ」
   というこの言葉に帰する。
   愛は隣り人に害を加えることはない。
   だから、愛は律法を完成するものである。

              ロ-マ人への手紙13:8~10

 

 

2013年9月15日のメッセージ

「らくだが通るには?」

「富んでいる者が神の国にはいるよりは、
 らくだが針の穴を通る方が、もっとやさしい」。
  これを聞いた人々が、
「それでは、だれが救われることができるのですか」
 と尋ねると、イエスは言われた、
「人にはできない事も、神にはできる」。
 
           ルカによる福音書18:25~

この句節は18節からの話になります。ある役人が
「何をすれば永遠の命の受けれるか?」
とイエスに質問します。
幼い時から、戒めを守ることはしてきた、
しかし、大金持ちであった役人に、財産をみな
手放しなさい、そして貧しい人に施しなさい。
そうすれば天に宝を持つでしょう。
そして、イエスに従ってきなさいと
言われました。しかし、彼は財産が惜しいゆえに、
悲しんだとあります。その後の御言葉です。

この役人は、神では無くて気づかぬ内に財産を
頼りにしていました。イエス様は財産をあてにせず
神に頼る生き方を迫られたのです。
富と神、両方同時に仕える事は出来ないのです。
「2足のわらじは履けない」ということです。

財産を全て貧しい人々に分け与えなさい。
それは天に報いがあると言われただけで、
これは単なる自己犠牲や自己放棄。清貧の命令でなく、
勿論、献金せよと言う命令でもないのです。

イエス様は道です。イエス様は言われました。
「私が道であり真理であり真理である。私によらなけ
れば誰も父の元に行くことはできない」(ヨハネ14:6)
イエス様は羊の門です。そこを通らないと救いは無い。
そして羊のために命を捨てるとおっしゃいました。
それが贖いの十字架です。イエス様が救いの道なのです。

また、ユダヤ人の考え方には、金持ちは神様の祝福を
受けている人だと認識されているところがありました。
ある役人のその悲しんだ様子を見て、イエス様は、
お金持ちが救われるのは、らくだが針の穴を通るより
難しいと言われました。(金持ちだから入れるという
人々の思い込みを払拭しています。) 人々は
「それでは誰が救われるのか」と聞くとイエス様は
「神には何でもできる」。その答えには、
金持ちだから救われないという、言葉を打ち消された
のです。救いは神の力によるものだと言うことなのです。

「何をすれば命が与えられる?」と言う質問に対して、
自分が何かをしたゆえに救われるのはなくてただ
イエス様に従い習うだけであると言うことなのです。

イエス様に従うと言うことは、神の力です、神の国を
一番にできる恵みと力が聖霊によって支配されるのです。
まず神の国を一番に求める決断力を持つ事です。
その決断によって犠牲にしたものは、必ずこの世で
幾倍もの祝福を受けると約束されます。この世でも更に
必要な物がちゃんと与えられるのです。そしてその上に
永遠の命が受けられるのです。

まず神の国と義を求めなさい、そうすれば必要な物は
主が備えて与えてくださいます。神の国を目指し一番
にするなら何も心配する必要は無いのです。
(マタイ福音書6:33,34)

私達神に造られた人間は自己実現のために生きるのでは
無く、神の実現に生きるという事で生きる価値が神から
見出されます。神が人を造ったのは神の目的によるもの
です。ゆえに創造者に逆らって生きるなら、それは存在
価値がなくなるのです。造られた人間は、造った方に従
うのが神の義なのです。

日本人は物質的には裕福です。しかし、お金や名誉、
地位を一番に考え、悪魔が喜ぶような社会にコントロール
されてしまいます。神に頼り、神の戒め通りに生きるなら
素晴らしい世界が開かれ自由になりこの世に支配されず
勝利します。前回の半澤直樹の最後、近藤が自分を守る
ために友を裏切るシーンで終わりましたが、残念でなり
ません。

かく言う私も、神の国のために200万円の借金を持ち
ながらも公務員を辞職しました。しかし、神は必要な物
(衣食住)を与えて下さり、今は普通に生活ができて
おります。もちろん、借金も返済出来ました。

真の神様に出会えて感謝で一杯です。

 

2013年9月8日

「罪人を招く神様」
イエスはこれを聞いて言われた、
「丈夫な人には医者はいらない。
 いるのは病人である。
『わたしが好むのは、あわれみであって、
 いけにえではない』とはどういう意味か、
 学んできなさい。
 わたしがきたのは、義人を招くためではなく、
 罪人を招くためである」。
                   マタイ福音書9:12~13

病院に行く人は自分の体に問題があると
自覚する人です。しかし、病気であっても
気づかない人は、自分は健康であると言って
病院に行こうとはしません。

その為に健康診断を受けて自分の体に異常が無いか
調べるわけです。自分では自覚が無くても
問題が発覚される時があります。
早期発見、早期治療で助かる人も多いです。
私の家内もガンが早く見つかり、今はもう
健康な体です。早く発見できたのは
本当に神様の恵みのサインでした。

造り主である神様は、
自分は正しい人間だと思う人は、必要とされず
自分が罪人であると自覚する人間を招かれるのです。

自分が罪人であり、愚かな自分であることを
認めた時、神はあなたの罪を赦してくださるのです。
しかし、罪を認めない人は、神を必要とせずに
自分自身が神で在り続けるのです。
これこそ自覚のない罪になってしまうのです。

この句節は、イエス様が罪人と一緒に
食事をしているところを非難しているユダヤ人の
指導者たちに語った言葉です。

神の言葉を固く守る事を教えている彼らは、
律法の中で一番大切な公平と哀れみと誠実を
なえがしろにしている事に気付いていませんでした。

だから、彼らは病気に気づいていない病人なのです。

自分の問題に気づく人は本当に幸いです。
治そうと努めるからです。肉体は病院へ、人間の霊魂の
修理はこれを造った神様のところに行けば
完全に修理してくださるのです。

神様の目指すところは、神の愛と赦しを知り
神が造られし人間を修復されることなのです。

そのためにイエスキリストが罪の赦しの道となられました。
心からお薦めいたします。

 

 

2013年9月1日

半澤直樹の人気はすごいですね。
私も毎週楽しみに見ております。

「やられたらやり返す、倍返しだ!」

というセリフがはやり文句になってますね。

しかし、聖書で神様はこう言われました。

「悪人に手向かうな。右の頬を打たれたなら、
 他の頬も出してやりなさい」
「汝の敵を愛せよ!」「相手を赦してやれ!」

全く、違う事が語られます。

果たしてこんなことができるのでしょうか?

神様が全てご存知で復習してくださると信じる事で近づけます。
神様がおられて個人的にも愛されていると信じる事が信仰です。
日本人は神様を人間の空想の産物的に考えます。私も以前はそうでした。

人間が造った神ではなく、人間を造った神が居られるという事実です。
イエスキリストが神の存在と約束を明らかにしてくださいました。
この神の言葉に従うことで全てを益としてくださるのです。

時には神様は悪を敢えて放置することで
神の義と愛を現してくださいます。そして私達を神の子として
成長させてくださいます。

半澤直樹の第4話で、支店長の悪を見抜きギャフンと言わせました。
しかし、半澤はこの支店長にも愛する家族生活がある事を見たのです。
半澤は、自分の家族を潰された悲しみを持っています。その悲しみを
自分と同じように味わわせたくないと思ったのでしょう。
その支店長の家族のゆえに赦したのです。
その結果、支店長は完全に修復されました。これには感動いたしました。

神様も、悪人を裁くのではなく修復する事を望んでおられます。
人は生まれつき悪人などおりません。神は人を良き者として
お造りになりました。しかし、この世の欲望が人を悪人に
変えてしまうのです。この世には悪魔の誘惑があります。
しかし、その誘惑に誘われるのはその人の意志によります。
人には、間違った意思をもたぬように神様の戒めが必要なのです。

悪魔はもともと神に仕えていた天使です。その天使が神に反抗して
自分も神になりたいと、人を支配しようと企んでいるのです。

欲望を持って人を操る悪魔に対しての戦いは、
私達被造物が神様の愛を信じて従う事が如何に大切なことかを
知らしめる事なのです。

 だれに対しても悪をもって悪に報いず、
 すべての人に対して善を図りなさい。
   あなたがたは、できる限りすべての人と平和に過ごしなさい。
   愛する者たちよ。自分で復讐をしないで、
   むしろ、神の怒りに任せなさい。
 なぜなら、「主が言われる。復讐はわたしのすることである。
 わたし自身が報復する」 と書いてあるからである。
   むしろ、「もしあなたの敵が飢えるなら、彼に食わせ、かわくなら、
 彼に飲ませなさい。そうすることによって、
 あなたは彼の頭に燃えさかる炭火を積むことになるのである」。
    悪に負けてはいけない。かえって、善をもって悪に勝ちなさい。
                            
                       ローマ12:17~21