2013年4月21日 主日礼拝のメッセージ

「更に父に愛されるために④」                          ヤコブへの手紙4:5~10

私たちは、知らず知らずのうちに高慢になってしまいます。自分は高慢でないと思っていて気づかないうちに人を傷つけていることがあるのです。それは自分を守ろうとするプライドが人を見下げたり、自分より上の人を妬んでしまうのです。人の上に立つ人ほどこのプライドは上げられていきます。知らず知らずのうちに自分の存在を大きなものにして、自分の存在価値を他人に要求してしまうのです。それが自分を神とする高慢さなのです。そしてそれは野心的な欲望なのです。恥ずかしい事ですが、私も周りの人から気づかされた事があります。それに気づいて自分を変えることができるなら幸いなのです。

ブランド小さい例えですが、ブランド物のカバンが好きな人は2種類の人がいます。そのブランドの商品が良いから買う人と、そのブランドの商品を持って優越感を得る為に買う人です。みなさんはどちらですか?

私は若い頃カーステレオを売る商売をしてたことがありますが、多くの人は安くてもケンウッドというメーカーのステレオを買っていきます。ケンウッドのマークがかっこいいからです。しかし同じ価格なら、こちらのほうが音がいいですよと言って勧めても、音の悪い安物のケンウッドを買っていきます。本質を求めないで、見栄を張る人が案外多いことに驚きます。

人は自分を誇示しようとします。これが罪に結びついていくのです。悪魔もこれを利用して神さまから反らそうとします。誇示は高慢になる要素になります。

弟子たちは自分がイエスさまの一番弟子だと言って誇示しようとしました。ところがイエス様は「自分を高くするものは低くされ、自分を低くするものは高められるであろう。」マタイ23:12 いちばん偉い人は仕える人でなければならないと、教えられました。これは、普遍的な真理です。”誰でも”とイエス様は言ってます。神さまを信じる人も信じない人も皆そうなのです。

更にヤコブは言います。「高ぶるものを退け、へりくだるものに恵みを給う」

神は私たちの中に住まわせた霊と魂をこよなく愛しておられます。妬むほど愛していると言われます。欲望から富を望む事により、悪魔の方に行ってしまう。そのような人を妬まれる神様です。しかし、高慢になり欲のゆえに神から離れるようなことがあっても神はそれでも悔い改めて自分の愚かさを知り、神のもとに立ち返るなら、赦して下さり、抱きしめて下さり、めぐみを賜ってくださるというのです。(放蕩息子の話ルカ15:11~)

常に高慢にならぬように自分を点検し、自分を低くして、その姿勢を忘れずに自分を管理できる人は更に神さまの恵が大きいことでしょう。

 

 

2013年4月21日 主日礼拝のメッセージ

「更に父に愛されるために③」                          マタイ25:31~46

どういう人が父に祝福されるのか?

時が来れば必ず全ての人は神の御前に裁きを受けます。ここで言う羊と山羊、右の者、左の者と分けられるとあります。驚くことに後述ではどちらも神を信じている、知っているという信者である事がわかります。

救いの約束は絶対的でイエスキ羊と山羊リストを信じる信仰によって約束の神の国を受け継ぎます。これは、聖書の絶対的な法則です。ですので、消して行いを基準にして救われるのではありません。

ここでは、神の愛と恵みを知り、救われた者はその戒めを守り、善行が伴う真実の信仰者だと明らかにされるということなのです。真実の信仰者は良き実が結ばれていくという結果になるのです。逆に口先で信仰告白をして救われたと信じていても、何もしていないのは偽物だという事になります。何もしないということは結局、何も分かっていないということになります。

救いの完成は肉体が無くなる寸前までわかりません。聖霊により、新しく生まれ変わらなければ実を結ぶことはできません。だから、聖霊は救いの証印 だと使徒パウロは言いました。聖霊によって実を結ぶ信仰者に変えられて行くのです。

神様は聖霊を求めるものには必ずお送りくださいます。聖霊なくしては本物になれないと言っても過言ではありません。

イエスを信じていると言いながら、それが真実なのか、偽りなのかが明らかにされる時が来るのです。父に祝福された人とは、神を愛する=神が愛した弱き小さい者を愛する者だと教えています。

神の戒めは「互いに愛し合いなさい。」です。

神を愛するために、人を愛するのでは無くて、                                       戒めを守る=人を愛することで、知らないうちに神を愛することになっているのです。

よく日曜日の礼拝を守る事で神を愛していると満足している方がおられますが、それは違います。本当の礼拝者は日々の生き様が神の戒めによって生きているかが大切なことなのです。ローマ12:1.2

日曜日の礼拝の後、平気で他人の悪口を言っている人は非常に残念です。

戒めを守り、実践する者が本物であり、父に祝福される人であるという事です。父の御心は良い実を収穫する事です。私たちが父の喜ばれる良い実を結ぼうとするなら、必要な栄養は与えられるのです。

たとえば、土地が、その上にたびたび降る雨を吸い込んで、                        耕す人々に役立つ作物を育てるなら、神の祝福にあずかる。     へブル人への手紙6;7
2013年4月14日 主日礼拝のメッセージ

「更に父に愛されるために②」                       ヨハネ福音書15:1~2&7

父なる神は農夫、ぶどうの木はイエスさま、その枝は神を信じる私たちです。                   ぶどう農夫である父は、実を結ぶことを望んでいます。そのことのために剪定したり、摘蕾、摘果、したり肥料を与えたり、虫から守るための消毒、手入れをされます。そのように私たちの実を結ぼうとするものに手入れをして良い実を結べるように手入れしてくださるのです。私たちが神の前に良い実を結ぼうとするなら必要なものを与えてくださるのです。

時には大きな実を見るために剪定もされます。父は立派な子を育てるために試練も与えられます。それは良い実を結ばせるためです。

いずれにせよ、私たちへの条件は一つです。戒めを守ろうとする心があるか無いかなのです。それは前回もお話したように「私が愛したように、互いに愛し合いなさい」と言う戒めです。

ようするに実を結ぼうとする決心です。

その戒めを守ろうとするものに更に聖霊様をお送りくださり、父の愛を更に知る事ができるようになるのです。人間には愛する力は無いのです。自分を愛するために人を愛せても、自分を愛するように人を愛する事はなかなかできないものです。そこで父の愛を聖霊によって知る事が必要になるのです。それだけでなく、この世での必要なものはなんでも与えてくださるのです。(ヨハネ福15:16.17Ⅰヨハネ3:21~24、5:14.15)極端な話ですが、名誉も富も愛し合うことに必要なら与えてくださるのです。それには父の戒めを守るという意思が大切です。

父の愛を更に体験されたい方は、愛を実践しましょう。愛することが難しいと思える人でも、まずは「愛さなければ」と言う心を大切にすることです。それが神さまの法になります。

良い実を結ぼうとする人に、なんでも求めるものは与えられる神の特別な恵があります。更に自分が父に愛されていることを実感できることでしょう。ご利益をいただくための宗教ではなくて、私たちが良い実を結ぶために父なる神様は与えてくださるのです。

皆さん是非実践してみてください。神秘的な賜物を求める人は多いですが、それよりもっと大切なことです。愛することによって神の愛が全うすると聖書は教えております。Ⅰヨハネ4:11

特に教会の中で妬んだり、いがみ合ったり、憎しみあっているなら、すぐさま心を変えましょう。そうすれば神さまの祝福が更に臨みます。神の祝福がありますように。

  

 

2013年4月7日 主日礼拝のメッセージ

「更に父に愛されるために①」                       ヨハネ福音書14:18~21    

神は、はじめから私たちを愛するために創造されました。私たちはイエスキリストを通して、その方をを「お父さん」と呼ぶことができるようになったのです。これは驚くべきことです。神様が私たちを子供としてくださると言うのです。天地創造主なる神が私たちをDSC07153_R父親として愛してくださるというのです。

父なる神に更に愛される秘訣がここにあります。

弟子であるピリポがイエス様に父を示して欲しいと言うのですが、イエス様は「私を見たのは父を見たのです」と言われました。ヨハネ福音書14:9私たちは月を夜空に見ていますが月の光は太陽の光です。太陽の光が反射して月を見ているわけです。月の形を見ていますがその光は太陽だと言う事です。それと同じようにイエス様を見ているという事は聖霊様を通して働かれる父を見ているということになるのです。これがキリスト教の三位一体です。

イエス様を愛する=父を愛する=戒めを守る=更に父に愛される

その戒めとはなんでしょう?イエス様は言われました。                                   「私が愛したようにあなたがたも愛し合いなさい」ヨハネ福音書15:12

日本語では「愛」という言葉は一つですが、聖書の書かれているギリシャ語では4種類の愛があります。肉親や兄弟家族の愛(ストルゲ)、男女の恋愛感情(エロス)、友情愛(フィリア)、神的愛(アガペ)、聖書の言う愛はアガペの愛です。他の愛は条件付きの愛です。自分の損得勘定で壊れる愛です。しかし、神の愛は無条件の愛で一方的にありのままの私たちを愛してくださっているということです。その愛を所有して愛し合いなさいという事です。

この手本を見せられたのがキリストの十字架の出来事なのです。自分の命を犠牲にしてまで私たちを生かしたい。それだけの価値が私たちの中にあると言う、愛を示してくださったのです。

そこでこの愛を知るために聖霊様が働かれるのです。聖霊によって愛を知り(体験経験)、その愛を実践して行くことで更に父は私たちを愛して、必要なものを与えて良き実を結ばせてくださるのです。

次週、更に深く伝えたいと思います。