Monthly Archives: 3月 2013

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今週のメッセージ2013年3月

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2013年3月31日 復活節(イースター)礼拝のメッセージ

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黄泉帰り(蘇えり)        ヨハネによる福音書 6:35~40
イエス様は言われました。

 

「わたしの父のみこころは、子を見て信じる者が、
ことごとく永遠の命を得ることなのである。
そして、わたしはその人々を終りの日によみがえらせるであろう」

 

私が聖書を読んで最もびっくりしたのがこの復活でした。
明らかに神は人類に約束しておられるのです。

 

こんな不思議な約束が明快に記されていることがある事に驚嘆しました。

 

キリストは神でありながら肉所有の人として自らを十字架に掛り、私たちの罪の身代わりとしてご自分の肉体を捧げられました。神の私たちに対する一方的な愛であります。その愛は命をかけて償われたのです。その愛を受け入れるだけで私たちは死から命へと移されて神の前に義としてくださるのです。

 

こんな話が信じられますか?しかしこれが歴史上の事実だったのです。

 

驚くべきことにはヨハネの福音書5:29には、信じる者だけでなく善人も悪人も全ての人がよみがえると記しています。善人は命を受けるために蘇えり、悪人は裁かれるために蘇るとあります。神の最後の審判で古今東西全ての人が裁かれるというのです。しかし、イエスキリストを信じ、新しく生まれ変わった人は裁かれないというのです。

 

キリストはその初穂としてまず最初に蘇られました。朽ちる肉体から、朽ちない体に変わったと聖書は説明してます。(1コリ15章)。先にその約束の証拠をキリストを通して表してくださいました。500人あまりの人が復活のキリストと出会ったと証言しています。また、キリストの十字架にかけられた直後、神を信じて死んだ人が墓から蘇ったとも記されています。

 

信じる私たちにも、永遠の命、朽ちない体、神の御国が用意されているのです。どうしたらいただけるのでしょう。イエスキリストを通して神の国を求めるものに与えてくださいます。

 

主は言われます。「神の国は襲いかかるものよって奪われる」「求めよそうすれば与えられる」
そうあなたにも約束されている事なのです。求めるものには必ず与えられる永遠の命、神の御業に心から感謝いたしましょう。

 

 

 

2013年3月29日金曜日 受難日礼拝のメッセージ

29日の金曜日は受難日イエス様が十字架にお掛かりになった日です。

この映画は私も見ましたが、とにかくムチのシーンは酷い絵でした。ムチのシーンでは涙が止まらなくなりました。「そこまでして私たちを愛してくださるのですか・・・・」と感動で震えてきました。信じていない人にとってはただグロテクスな絵にしか見えないでしょうけれども、知っているものには神の愛と情熱がひしひしと伝わるシーンでした。今までにもキリストの映画はたくさんありましたが、これほどまでにリアルさが表現された映画はありませんでした。「パッション」題名の通り伝わってきました。

”キリストは何故十字架に” と言う疑問は私も小さい頃の疑問でした。全くワケがわかりません。多くの欧米の外国人が信じる理由が必ずあると思いましたが、近所に教えてくださる方はいませんでした。過去日本でも多くの殉教者がいました。特に長崎では多くの殉教者の血で染められました。そこまでして信じることを捨てない宗教って何?死んだら終わりじゃないの?これは気狂いとしか見えないです。

しかし、そこに命を捨ててまで信じれる真実があったのです。信じる向こうには永遠の命が約束されております。その事実を、イエス様が死ぬだけで終わったのでは無く、朽ちない体に蘇ったのです。聖書をとおして、それを事実として私たちに示してくださいました。それだけでなく、現代の私たちにも聖霊様をくださることによって保証してくださると言う事実を体験できるのです。

そう、これを読んでいるあなた!あなたのためにもイエス様は十字架で苦しんだのです。あなたの罪の身代わりとなって、苦しみを耐え忍ばれたのです。神の愛は自分の命を捨てるほどに私たちに臨んでいるのです。これを信じる人は幸いです。神の国で永遠の命を受け取ることができるのです。 心からお勧めします。

 

2013年3月24日主日礼拝のメッセージ

 

シュロノ葉棕櫚の聖日           マタイによる福音書21:5~11

「ドン・キホーテ!?」

今日から受難週に入り金曜日は受難日(キリストの十字架の日)、そして31日の日曜日にはキリストの復活祭(イースター)です。一週間前である今日はイエスキリストエルサレム入場の日、シュロの葉(左の写真)を引き詰めた道をイエス様が子ろばに乗って入場されたのです。

これは旧約聖書ゼカリヤ書9:9で出てくる預言の成就です。イエス様は入場するとき群衆が讚美する中、入場されます。これもまた詩篇118:22~27の成就なのです。

聖書によると(エペソ書1章)神様の御業は、万物が出来る前からキリストのあってすべて計画されていました。予言の成就とは計画が実施されたことなのです。聖書の「預言」というのは、「予言」ではありません。また当たる当たらないの占いでもありません。神様の計画予定が預言者を通して小出しに教えられているのです。極論を言えばこの世や人類がどうなるか神は既に決めておられるのです。子ろば、シュロの葉、群衆の賛美も、決められた計画であってその事がらがイエスをキリスト(=メシア=救世主)として証明する証拠になるのです。旧約聖書にはイエスをキリストとして証明する箇所は400箇所以上もあります。

しかし群衆は、イエスがメシア(キリスト)であって、十字架に掛かりに行くなど誰も思っていなかったはずです。逆にモーセのようにイエスラエルをローマ帝国の支配から逃れ、復興されると期待したのでしょう。群衆はイエス様の数ある奇跡のゆえに神の遣わされた指導者や預言者と見ていたのです。

普通、戦いに勇ましく行くなら、馬にまたがるシーンを想像するのですが、神の計画はロバだったです。人の生活道具として役立つ平和のロバ、それもまだ子どもで人に使われたことのないロバなのです。神は戦いで勝利を納めるために馬にまたがらず、敢えてロバで平和の救いを達成する為に入場されたのです。群衆はそのことに全く気付かず、イエス様のエルサレム入場に神を褒め称えたのです。弟子たちでさえわからなかったので、仕方ないです。この後、この群衆は「イエスを十字架につけよ」と豹変するのです。群集心理とは恐ろしいものですね。悪魔がこれを用いて人をコントロールするわけです。

群衆は本当の意味を知らずに讚美しており、1000年前(今から3000年前)の預言が成就しています。

詩篇の118:23には「これは主のなさったことだ。私たちの目には不思議なことである」とあります。

今私たちは過去の結果が一望できるので、神の摂理の不思議さにただ驚きなのがわかりますがこの時は、誰も知らずに神の計画はイエス様を通して実行されていたのです。キリストの十字架の意味は知る人は未だに少ないのが事実ですが、この事実を知れば誰でも、イエス様を信じるなと言っても信じるでしょうね。そこは理屈でなくて聖霊差の働きなんですね。

私たちもいろんなところで愚かな様に思えたり、困難や艱難、苦難いろんな問題が押し寄せてきます。しかし、そこに神の計画や摂理が必ずあると信じれるなら、私たちはすべてクリアーできるはずなのです。ロバにまたがったイエス様は神の愛を現すための勇者なのです。受難に向かうロバのイエス様は真の勝利者なのです。「魂の命を獲得するために、肉の命を犠牲にする。」神の愛なのです。

肉の命が無くなっても魂を活かすことのできる神様の愛に全てを委ね、人の目からは愚かで不思議ですが、完璧である神に全てを委ねたいとあらためて思わされるシーンです。

 

 

 

 

2013年3月17日主日礼拝のメッセージ

たつおの写真 

信仰とは神の国の先取りである。    

                                             ルカによる福音書 17:20~21

主は私たちに祈り方をおしえてくださいました。
「御国を來せてください、神様の御心が天にあったように地上にもそうしてください」マタイ6:10
この祈りは、私たちがこの地上に居ながらにして、神の国の支配が臨むようにと願いなさいという事です。

 

この地上は神の国ではなく、悪魔の支配する世界だと聖書は断言しており、この中に私たちは知らず知らずに悪魔の住むこの世に生きているのです。その中で神が与える約束をイエスキリストを通して受ける事ができるようにしてくださったのです。その約束とは、神の子とされ、神の国の財産相続権が与えられ永遠の命を保証される約束です。これはおとぎ話のような約束ですが、これを事実として受け取る事ができるように神は求めるものに聖霊を保証として送ってくださるのです。

 

いわば、この世は悪魔と悪霊たち、神に逆らったアダムとエバの罪を背負った私たちが閉じ込められた刑務所のような場所です。私たちは無期懲役を架せられた囚人のようなものなのですが、この刑務所から神の国に移されるという約束が与えられたのです。

 

無期懲役で死を待つだけの人生に、永遠に生きる命をいただけるという恵が現れたのです。死を持って裁かれるべき私たちの身代わりとして死んでくださったイエスキリストを信じればそれでいいというのです。
この確信を得ることのできる方法が聖霊様を祈り求めることです。この聖霊様によって神の国の保障として
送ってくださるのです。これを事実として今現在も体験できるのです。すごい事なのです。
エペソ人手紙1:14

 

主イエス様はこう語られました。「神の国は、実にあなたがたのただ中にあるのだ」ルカ17:21

 

私は小学校の時、遠足が非常に好きで、勉強から解放されるだけでなく、バスに乗ったり、お弁当を食べたり、おやつを食べたりと、前日にはワクワクして夜も眠れないほどでした。おやつは一人300円までと先生に言われて、買いに行く時の嬉しさと来たら最高です。まだ遠足に行ってないのにウキウキなんですね。
バナナはおやつかどうかなんて友達と論争しておりました事が懐かしいです。(私的にはバナナはお弁当箱に入れたらOK)このようにまだ遠足に行ってないけれどウキウキで準備するように、神の国の約束をウキウキで待ち望み、そのために神の国で味合うおやつを準備するようなワクワク感なのです。

 

この、状態を保つことが神の国の先取りだということです。

 

信仰は簡単なんです!遠足に行く子供のように素直になればいいんです。
そうすれば、人生が素晴らしくなってくるのです。

 

希望は失望に終わることはないと、確信できるのです。

 

 

2013年3月10日主日礼拝のメッセージ

愛は恐れをとり除く                            ヨハネ第1の手紙4:13~21

神から愛されている確信は、聖霊からの賜物です。

人間自身の考えではけして神の愛を知ることができないんです。

イエスキリストの十字架を通して神の愛を知ることができますが、

いくら説明を受けても理屈では、こんなこと理解できないんです。

そこで神様にこの聖霊を求める事が必要になります。聖霊によってのみ、神の愛を知る(体験)わけです。

①神は愛である。 ②神が造った人類を愛している ③私たちが互に愛する事で神の愛が全うされる。

この3つの事柄が私たちの内に現れます。

この神の愛の手本を具現的に示されたのがイエス様です。

「友のために命を捨てること。これ以上大きな愛は無い」と語られました。

私たちがイエス様に習って生きる事を示されたのです。

多くの場合、人はどれだけのことをしたのかその功績を見て相対的に判断されます。

しかし、神様は私たちがどれだけ愛したのかと言う事で本物かどうかを見分けられるお方なのです。

神の愛を知ったものは、誰にも裁かれることのない全く別の次元に移されます。

ですから、完全な神の愛である赦しの中にあるものは誰にも裁かれずに平安の中にあるのです。

誰がどう言おうとも神に愛されたものは、誰にも、恐ることなく大胆に強く生きる事が

神の愛の中にあって可能になります。

要するに、創造主である全知全能の神様が味方になってくださった事を知るのです。

特に日本人は霊的に恐るているので、先祖を崇拝します。これによって呪縛される事が多いんです。

これは愛の仕業でないことが明白なのですが、知らぬ間にその虜になってしまうのです。

それだけではありません、社会の中でもパワハラとか体罰等に恐れて我慢している人はたくさんいます。

そのような中で恐れている私たちを強くしてくださるのは、神の愛だけです。

この世で勝つのは誰か?完全な神の愛の中にあるものです。

神の愛の中に入る道は神の御子イエスキリストを信じる他はありません。

心からおすすめします。

 

 

 

 

2013年3月3日主日礼拝のメッセージ

テモテ第2の手紙 1:6~14

 

私たちに賜った 力と愛と慎みの霊に満たされよう!

そうすれば臆病者になれないのです。

あふれる恵、平安、喜びに満たされる神の霊によって

私たちは福音を黙っておれなくなるのです。

今まで食べたことのない美味しい果物を食べたのち

それを知らない人に教えたくなる。福音を伝えるとは

そういう事だと思います。

 

困難の向こうには必ず希望がある

上のヘッダーの写真は息子の道雄君が今から魚を獲りにゆこうとするところです。

この場所は伊勢志摩の大王岬の近くにある市後浜(通称ストロベリービーチ)です。

ここは海水浴禁止ですが、サーフィンで有名なところです。

しかし、奥の浜辺だけは波があまり立たず遠浅なところがあります。

波が立たないのでサーファーもきません。また時々近くの小学生が集団で学校の先生と

海水浴に来るぐらい穏やかなところです。

神様は誰にでも訪れる困難の向こうには、必ず穏やかさを用意してくださっています。

困難に直面したときは、神が見放されたと思ってしまい、神様がわからない時があります。

それでも神様は必ず見捨てないで愛してくれていると信じるのが信仰なのです。

しかし、その困難が過ぎ去ったとき思うんです。乗り越える事ができるようにしてくださったと・・・

その困難は私を強いものにしてくださるための試練であったと・・・感謝が湧いてくるのです。

人の考えでは悪いように思えても、神様は、全てを益としてくださいます。

神様の恵み 体験談✝

神様の恵み 体験談

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神の愛を知った瞬間                                            by東 たつお

私が救われたのは、と言いますか、洗礼を受けたのは友人の強い勧めと、再臨のイエス様が明日にでも来られたらどうしようという切迫感からでした。その時は地獄に行きたくないからイエス・キリストを信じようと決めたんです。「地獄がなかったら、私はイエスキリストを信じない。」しばらくは本気で私はこう言ってました。地獄へ行きたくないから恐ろしくて信じたんですね。その時は神の愛がわからず、また十字架の意味が全くわからなかったんです。

DSC04294_R.jpgしかし、ある日、教会の玄関にあったゴルゴダに向かう十字架を背負ったキリストの絵を何気なく見ているとき、すごいことが起こったのです。絵の向こうから、私の心に声がするのです。「私はお前のためにも苦しんだのだ」と細い声で聞こえてきました。その絵の前で立ち尽くした私は涙が溢れて止める事ができませんでした。それは嬉しい時の感動の涙でした。背中にジーンと電気が走ったような感じです。洗礼を受けて約5年は経っていたでしょうか、突然神様の愛が1対1でわかったのです。「十字架の苦しみは私のためでもあったんだ!」心の中でそう叫びました。感謝と喜びで溢れました。今まで神様を恐ろしいから一生懸命信じていた私は間違いに気づいたのです。それ以来、ローマ人への手紙の意味が本当にわかってきたのです。神様はありのままの私を愛してくださってたんです。それから、私は全てに恐れがなくなりました。本当に聖霊様の体験をしたのです。膝の痛みが瞬間に癒されたこともありました。しかし、そんなことよりも神の愛の心を知れたことが何より感謝なことでした。聖書に書いてあるとおり、2000年前から約束された聖霊が今もこんな私に下さるなんてまさしくアメイジンググレイス(びっくり仰天の恵)です。

今は、地獄や裁き主が恐いから信じているのではなくて、神様が素晴らしいから、愛してくださっているから、神様の元に行きたいんです。そしてこの素晴らしさを伝えたいんです。