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今週のメッセ-ジ2013年6月

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2013年6月30日 主日礼拝のメッセージ

「神が愛の源である」             ヨハネ第1の手紙4:7~10

4:7 愛する者たちよ。わたしたちは互に愛し合おうではないか。

       愛は、神から出たものなのである。

       すべて愛する者は、神から生れた者であって、神を知っている.

4:8 愛さない者は、神を知らない。神は愛である。

4:9 神はそのひとり子を世につかわし、

      彼によってわたしたちを生きるようにして下さった。

       それによって、わたしたちに対する神の愛が明らかにされたのである。

4:10 わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して下さって、

        わたしたちの罪のためにあがないの供え物として、

         御子をおつかわしになった。ここに愛がある。                                       

神は、この世に愛の必要性を教えてくださいました。

親の愛を受けて育つ子供は、愛豊かな人になります。同じように私達人間は神から生まれた神の子です。ですから父なる神の愛が必要なのです。親も人間ですから愛されることが必要な存在です。親も神に愛されて、その愛で子供を育て、隣人を愛するのです。人を愛する思いになるためには、まず、絶対的な父なる神様に愛されるという恵みが必要なのです。

そこで、神の愛を見るためにはイエス・キリストの十字架を知る事です。神を知らずして本当の愛を知る事はできないのです。神の愛はイエスキリストの十字架で現されました。この意味は聖書を通して歴史を知らないと理解し難いかもしれませんが、神の愛は理屈では計り知れないものです。愛されていることは体験することだからです。

愛の源は神にあります。人間をお造りになった神は、神に愛される事によって、人を更に新しく造り変えて下さるのです。私も考え方が180度変わりました。

神に愛されていることに気付いた時、私たち人間は愛し合うことが正しいと知ります。私達人間は皆、弱いです。愛されること無しには生きて行けないのです。どんなに強がっている人でも、いつかは自分の弱さを知ります。だからこそ、誰かに愛されていることが必要になります。またそれに気づかなければなりません。

人に愛を求めても、人は皆それぞれ自分のことで精一杯です。親でさえ子どもを犠牲にして自分の幸せを求めるご時世です。しかし、絶対に裏切らない神の愛はとてつもなく大きいのです。

その愛の源に近づきましょう。真実の神の愛があなたにもふれますように・・・・ きっとあなたは満たされます。 きっと生まれてきて良かったと喜びます。そうすれば、愛される事より、愛する事の必要を知ります。人は誰でも愛される事を望んでいます。それを満たす方が愛の源である神様だけなのです。

 愛は、まず相手を赦す事から始まります。赦すことは自分を潰す勇気です。自分を犠牲にして、相手にも平和をもたらせます。この赦しの力は神の愛から来るものなのです。それには、まず神の愛に触れる事が大切です。

聖霊により、神の愛があなたにも臨むのです。必ず神様に愛されていることを経験します。

神の愛を聖霊に求めていきましょう。

2013年6月22日 主日礼拝のメッセージ

「神の安息に入ろう」                             マタイによる福音書11:28~29

すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとにきなさい。あなたがたを休ませてあげよう。
 わたしは柔和で心のへりくだった者であるから、わたしのくびきを負うて、わたしに学びなさい。   そうすれば、あなたがたの魂に休みが与えられるであろう。

アナウンサーの辛坊治郎さんが転覆したヨットから救助されました。本当に良かったです。助けが来てくれるだろうか?死をも覚悟したと思います。「人知を尽くして天命を待つ」ということわざがありますが、もうどうにもならない時に、皆さんも一度や二度「神様助けて!」って心のなかで叫んだことが在るのではないでしょうか。これは人間が神様という存在の認識を潜在的にプログラムされているからだと思うのです。                                                                           そう言った絶体絶命な状況では無いにしても、手を尽くしたが何も変わらないと言って、人生に疲れを感じ、生きる望みを無くした人も、「神様~居られるなら私の悩み聞いてくださ~い」と心のなかで呟いたことがあると思います。私もまだ神様を知らない時に、「本当に神様が居られるなら、この願いを聞いてください。」と夜空に向かって呟いたことがあります。なんと、それは奇跡的に叶いました。今もその時の叶い(家内)は傍にあります。

神様の安息とは、休み、憩い、平穏、保護、助け、救い、慰め、回復、激励という事を含みます。安息の極みは神の国でありますが、現世においても、神の愛を体験できるということなのです。神は求める者に必ず答えてくださり、愛してくださっている事をわかるようにしてくださいます。この世であなたは「私は愛されている」と自信を持って言う相手が居られますか?親でも子を捨てる世の中です。そんな世の中でも神の愛は絶対に変わることが無いのです。神よりも強い人はいません。どんな人間でも強がり言って実は弱いものです。だからこそ強い神様の愛が必要なんです。強い方に愛されていることを知ることは強さと優しさを持つことができます。

この神様の愛に実際に触れ、休むことができるように約束してくださっています。誰でも神様の元に近づくなら、休みを得ることができるのです。この休みというのは先述した安息のことです。神に愛されていることの答えがあるのです。

まず心を神様に向ける事、祈り求める事です。必ず求める者には答えがあります。求めようとしない人にはけして答えはありません。私も昔は、神が愛なら、神様の方から現れてくれるだろう。それから信じようと傲慢に思ってましたが、もし神が居られるなら出会いたいと言う気持ちがありました。「こんな鈍感な私でも神様を知れるようにしてください」と一ヶ月毎日祈りました。それでも答えが無いのなら、もうやめようと思ってました。これが単なる宗教なら必要では無いからです。その結果、今は神様の為に働いています。

詩篇23篇1~3
 主はわたしの牧者であって、わたしには乏しいことがない。
  主はわたしを緑の牧場に伏させ、いこいのみぎわに伴われる。
 主はわたしの魂をいきかえらせ、み名のためにわたしを正しい道に導かれる。
 たといわたしは死の陰の谷を歩むとも、わざわいを恐れません。                      あなたがわたしと共におられるからです。                                    あなたのむちと、あなたのつえはわたしを慰めます。                                                                                                     いろんな困難な状況があろうとも神様が共に居てくださるので私は強くなれる、               神様に愛されていると言う安息から、強さや優しさ、本当の愛が現れてくるのです。               神様の言葉が本当かどうか実際に求めてみましょう。求める人は幸いです。

2013年6月16日 主日礼拝のメッセージ

「父なる神に帰る」                                       伝道の書12:7

ちりは、もとのように土に帰り、霊はこれを授けた神に帰る。

■今日は父の日ですが、まず私たちの創造主である霊の父である神に感謝しましょう。             最初、神様は人間を土のチリで造ったと聖書にあります。私たちの肉体が死んだ後、土の中に埋めると土に変わります。しかし最初の人間アダムを造られた時、神様は鼻の穴から息(霊)を吹き込んで生きたものとなったと記され(創世記2:7)、人間には霊が宿っています、この霊が、神に帰るのだと聖書は記しています。そしてアダム以後、生まれる子供にもアダムから分かれて霊が入っていきます。(伝道の書11:5)私達もその子孫です。

■最初の人間のアダムとエバが、神の言葉を守らず禁断の木の実を食べたがゆえ霊魂の死罪が入り込みました。それ以来人間は神の前から追い出される状態になりました。コレが人類の罪で、霊魂の死罪になるのです。しかし、この死罪を赦免されるようにしてくださったのが神の御子イエスキリストなのです。この方が私たちの死罪の身代わりとなり死んでくださったゆえ私たちは死罪が無くなり赦されたのです。それと同時に神のもとに、帰る事ができ、神の国に入れるようにしてくださったのです。また、この地上に置いても神の祝福(恵みと平安)の中で休みが与えられるのです。人は誰でも自分の安息を求めています。安息を得るために仕事をします。しかし霊と魂の安息は神が与えてくださいます。私たちにはそれが無ければならないのです。

■神から離縁されていた人間は、もう一度、お父さんと呼べるようにしてくださったのです。そして父なる神は「おかえり」と言って抱きしめてくれるのです。(ルカ15:11~)このチャンスは神を求める全ての人に与えられます。求めるものには神の愛を知る事ができる聖霊が送られるからです(ルカ11:13)。この聖霊により神様を「お父さん」と言える親密感が現れます。(ガラテヤ4:6)。これは事実なのです。

■私達は神様に愛されるために造られました。                                      神の愛を知るために人間は一度、アダムのゆえに罪というマイナスの領域に入りました。しかし、イエスキリストの故、罪が赦され、負の領域より”0”ゼロになったのです。しかし神様の愛は世のはじめから私達に対してプラスのままです。ですから神様に赦された私たちはゼロになり、神様に近づけば近づくほどプラスになって代えられていくのです。しかし、神様から離れていく人たちはマイナスのままなのです。神様の言葉を守り(互いに愛し合う)、全てを委ねて行くことがお父さんに近づくことなのです。                    そうすれば私たちは神の前にプラスになっていくのです。

2013年6月9日 主日礼拝のメッセージ

「相手を赦す決心」                               エペソ人への手紙4:32                                                                  互に情深く、あわれみ深い者となり、神がキリストにあってあなたがたをゆるして下さったように、 あなたがたも互にゆるし合いなさい。                                                                                                            愛するとは相手がどうであれその人を愛するということなのです。親が子供を愛する事、これは当然です。子供がどんな卑劣な犯罪を犯したとしてもその親にとっては、掛け替えのない子供なのです。神様も子供を愛するように私たちを愛しておられます。いがみ合っている二人を同じように愛しておられるのです。親としての神さまは、憎しみあっている二人を悲しく思われることでしょう。敵と言いましても、普段仲良くしていた人ほど些細な事で敵になりかねませんよね。(妬みが多くの原因)「昨日の友は今日の敵」だと言う言葉もあるくらいです。                                                              そこで、敵を愛する前に、相手を赦す決心が必要になります。それは神さまの望む平和を作るためです。赦すという事は、自分を犠牲にする事です。自分は悪くない、悪いのはあいつだと主張するところに平和は来ないのです。両方ともに自分の正しさを主張すれば平行線です。どちらかが折れないといけないのですが、多くの場合、相手に負けを認めさせる事が絶対できないプライドがあるのです。このプライドを自ら潰す事が、赦すという事につながります。                                               神の御子イエス様も神でありながらご自分の神のプライドを捨て、自分を砕くことによって、私達の犯した傲慢さと罪の赦しの代償となられたのです。この贖い主イエス様を通して神によって造られたけれど、罪のゆえ神から離縁していた私たちは、神の元に帰ることができるようになったのです。(これを福音と言います。)神自ら、人を赦すために自分の命を捨てられたのです。神の愛はイエス様を通しての赦しにあります。神はそれを通して、私たちに赦す事の手本を見せてくださいました。                          こんなに素晴らしい御方が私たちの創造主なる神様です。信じない理由は何処にあるのでしょうか?
使徒パウロも言ってます
もしあなたがたが、何かのことについて人をゆるすなら、わたしもまたゆるそう。そして、もしわたしが何かのことでゆるしたとすれば、それは、あなたがたのためにキリストのみまえでゆるしたのである。
そうするのは、サタンに欺かれることのないためである。わたしたちは、彼の策略を知らないわけではない。                                                        コリントⅡ2:10、11サタンすなわち悪魔は憎しみ合うようにこの世に働きます。私たちの背後で信頼関係を潰して人を傲慢にさせ神さまの御心からはずれさせようとします。そうして神様から引き離そうとします。               人の心の内が気になりますか?人がどうかではなくてまず自分が愛を示すためにまず「赦す決心」です。悪魔の思う壺にならないように、自分を砕くのです。人を変える事はできません。まず自分が変わる事だと神さまは教えておられます。                                                                                                                         私事ですが、かく言う私もこれを実践した事があります。「私の事で気分を悪くさせてしまって悪かった。すまなかった。」そうしたら平和がきました。互いに赦し合えました。心のわだかまりが一切取れ平安が支配したのです。私は祈りと自分を負ける事で平和を勝ちとったのです。 平和のための祈りは聴かれます。    皆様も是非実践してみてください。「赦す決心」。神さまは必ず聖霊を通して助けてくださいます。 

最後に 「平和を造り出す人は幸いです、神の子と呼ばれるでしょう。」 by Jesus                     

2013年6月02日 主日礼拝のメッセージ

「行うままにさせよ」                      ヨハネによる福音書22:10~13
イエスはわたしに言った、「この書の預言の言葉を封じてはならない。時が近づいているからである。
不義な者はさらに不義を行い、汚れた者はさらに汚れたことを行い、義なる者はさらに義を行い、      聖なる者はさらに聖なることを行うままにさせよ」。
「見よ、わたしはすぐに来る。報いを携えてきて、それぞれのしわざに応じて報いよう。
わたしはアルパであり、オメガである。最初の者であり、最後の者である。初めであり、終りである。                                                                         よく、聖書を知らない人がこのような質問をしてこられます。「神様が居るのなら、なぜ悪い人がこの世にいて悪いことが起こるのですか?」私はいつもこう答えます。「神は敢えてそうしておられます。」 イエスは2000年前に戦争や民族紛争、飢饉、自然災害は世の終わりに頻繁に起こるのだと預言しています。 事実、その通りに世の中は悪化するばかりです。                                                                                                           神が居られるなら・・・と言う人の思いの中には、神はこんな方だと勝手な理想を描いているだけなのです。しかし、聖書をよく見ると神の思いと人の思いは違います。神はこの世(宇宙、万物)を創造した目的、お考え、計画があるのだと教えています。わざわざ死ぬという弱い肉体で人を造られたのも意味があるのです。                                                                                                                                        少し話が飛びますが、アリスと言う音楽バンドが再結成し11枚目のニューアルバムを出されました。その中で「ボイジャー」と言う歌があります。この歌詞を聞いておりますとまさに聖書の事を知っているかのようです。「イブから始まりアダムの定め、そしてマリアから始まる。その意味、その理由はきっと解る日が来る。」というような歌詞があります。ボイジャーというのは長い道のりを旅する旅人と言う意味です。聖書は私たちの人生は旅人のようだと言ってます。最後にアベマリアの賛美歌が入っているのには驚きです。歌詞は谷村新司さんが作ったようですが、聖書を知らないと書けないと思います。旅人は肉体はこの世で行きますが死後何処に行くのか解るようになります。人の成功はやがて無くなるこの世には無く、私たちの求めるものは霊魂の行き着く神の国です。そこに成功があります。                                                                                                     神はなぜ人をこのように作ったのか?と言う質問は愚問です。なぜなら神が全主権を握った創造主で我々はその神によって造られた被造物だからです。ある茶碗が、陶芸家に「なぜこのように私を作ったのか」と言うこっけいな話なのです。                                                                                                                        神は敢えてこの世に悪を容認しております。なぜなら、神に従う人の正しさを悪のはびこるこの世の中で明らかにすることが神の御心です。最後の審判で善悪は明らかにされます。堕落した天使たちを裁く為に敢えてそうされているのです。(このあたりの話は相当深い話になります)しかし、私たちにとっては本当の神の愛を知ることのできるこの世となります。神が命を懸けて私たち人類を愛している表現をイエスキリストを通して実行されました。「神が肉体を持った人となり、人の罪の身代わりになって死ぬ」これが可能になる世界を作られたのです。 神の愛の大きさは命を懸けて現されました。これは神の国では死のない存在ですので絶対表現できない事なのです。肉体が死ぬというこの世だからこそ、それが可能なのです。私たちを神の子として迎える為、神の愛を命を懸けて表された神の御子イエス。私たちの神はこんなに素晴らしいのです。ゆえに私は心から神を信じ愛したいと思います。
マラ キ書3:14~18

あなたがたは言った、『神に仕える事はつまらない。われわれがその命令を守り、かつ万軍の主の前に、悲しんで歩いたからといって、なんの益があるか。 今われわれは高ぶる者を、祝福された者と思う。悪を行う者は栄えるばかりでなく、神を試みても罰せられない』」。
そのとき、主を恐れる者は互に語った。主は耳を傾けてこれを聞かれた。そして主を恐れる者、およびその名を心に留めている者のために、主の前に一つの覚え書がしるされた。 「万軍の主は言われる、彼らはわたしが手を下して事を行う日に、わたしの者となり、わたしの宝となる。また人が自分に仕える子をあわれむように、わたしは彼らをあわれむ。
その時あなたがたは、再び義人と悪人、神に仕える者と、仕えない者との区別を知るようになる。                                                                          更にある人は言うかもしれません。「神が愛なら何故みんなを無条件で救わないのか?と・・・・。」そもそも人が神に注文し文句を言う事、これが罪なのです。そのような質問をする人は神の上に自分を置いているからなのです。これを罪と言います。罪の意味は的外れです。(例えば人が造ったロボットが、人を支配する事)無条件で救うと的外れの堕落した天使と同じ人が現れるからなのです。素晴らしい神の国の建設のため、命を懸けて愛を示され信頼できる王様がイエス様です。誰でもイエスキリストの神の愛を受け入れ信頼するだけで救われると言う道が用意されたのです。                                                                                                          あなたも神様を「お父さん」と呼ぶことができ、神の国でお父さんの宝とされるのです。
 
                                      

三位一体について, 神様を知りたい!

三位一体とは?

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三位一体(トリニティー)とは、御父と御子(イエスキリスト)と聖霊なる神が3つの存在を通して一つの神が働き存在される。と言うことなのですが、聖書には三位一体と言う言葉はありません。聖書の研究をした神学者が見出した理論です。                                                                                                                       神学校や、あらゆる書物で学ぶ機会がありましたがなかなか明快に理解できる説明がありませんでした。また、イエス=父なる神=精霊だとはっきりいう人もあります。真逆にエホバの証人さんはイエスは人であって神では無いと言います。これらは間違いですが、御父=神、イエス様=神、聖霊=神であるならOKになります。                                                                                                                                  父なる神はある計画、目的、意思の元に、御子イエスと聖霊様を用意され、大元の存在として目で見えない触れることのできない得体の知れない大きい方です。御子は、父の御意思によりこの天地万物を創造され、御父の手足となり活動される方で十字架に架かるために肉体を所有されるためにこの世にその姿を現された救い主なる神です。聖霊は私たちの助け主となるために御父から送られる神の御霊なのです。 神はひとりであるけれどその働き、役目の違いで父なる神が用意されたシステムなのです。                                                                                 わかりやすく言いますと。太陽2011.5.18十六夜月と月と星の関係で見るとわかりやすいです。太陽は光の元なる父です。太陽は眩しくて直視できない存在です。月は闇夜を照らす小さな光ですが、月を見ている言いながら実は太陽の光の反射を見ているんですね。これがイエスキリストです。その周りの星ぼしたちは闇夜の中で太陽の反射できらめく存在で、聖霊を受けた私たちクリスチャンになります。(ピリピ2:15)(この写真は2011年5月18日に自宅より500mmで撮りました。少し黄色に着色してます。)            地球上は昼であっても宇宙に出れば24時間闇夜です。昼は太陽が直視できません。聖書では天国においては神様自身が私たちを照らす光だと言ってます。夜と言う暗い時が実はこの世の現実で、昼間という存在は太陽と地球独自の自然環境で明るいだけであって、特別な環境なのです。本来昼間と言う青空の世界は偽物であって演出された舞台のようなものです。現実は暗闇なのです。暗闇の中で見える月を見て私たちは太陽を見ていることになります。暗闇という現実のこの世で罪悪が蠢き悪魔が君臨している中、現実の夜という環境で月を見る事が正しいということです。イエスさまは「私を見たものは父を見たのである。何故私たちに父を示せというのか?」とこのようにヨハネの福音書で弟子ピリポに告げられました。(ヨハネ福音書14:9)

この説明方法を他に聞いたことがありませんが、これが的確かと私は説明しております。 あるエホバの証人さんに説明したことがありますが、これで理解していただけました。神さまの名前はこの世で明らかにされているのはイエス(Jesus)だけです。旧約聖書中のYHWHの四字神名を解き明かしたとしても、救いの名はイエスキリストこれ以外には無いのです。                                                                                                            イエスさまは神の本質の真の姿であり、(へブル1:3) 神を見たものは誰もいない、ただ父のふところにある一人子なる神だけが、神を現したのである。(ヨハネ1:18)                                                                                                 イエスは言われた、                                                      「私が道であり真理であり命です。誰でも私によらないでは、父のみもとに行くことはできないのである。」                                                 (ヨハネの福音書14:6)

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今週のメッセージ2013年5月

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2013年5月26日 主日礼拝のメッセージ

「真理とは何か?」                      ヨハネによる福音書14:6
イエスは彼に言われた、                                             「わたしは道であり、真理であり、命である。だれでもわたしによらないでは、               父のみもとに行くことはできない。

真理と言う言葉について日本人は理解しがたい言葉だと思います。真理と言われるものが見当たらないからなんです。昔は天皇と言う絶対者(現人神)の名のもとに服従させられていた大日本帝国ですが、戦争に負けた今はそう言った存在がなくなりました。今では残念ながら、進化論を絶対論と信じている日本人にはなかなか理解できないようにされています。進化論とは全ての存在が意味無しで偶然に発生したと言う考えです。しかし、創造論というのがあり、創造者の意図により、すべての存在が意味有りの考え方です。簡単に申しますと、創造主なる神が居るか居ないかの違いです。

真理(truth)とは「絶対的に変わらず、揺らぐことのない定義、事象、思考」 と辞書にあります。                                                                            実在の神がある目的、考え、計画のもとにこの天地万物を創造し保っている。                  この事実を人間に証明するために イエスキリストがこの世に現れたのです。それまではユダヤ人預言者を通して言葉による神の啓示がありましたが、それが具現化され現実となったのです。それは旧約聖書(ユダヤ教の経典)によるメシア(すなわちキリスト)救世主の400にも及ぶ預言の言葉を全てそれに当てはまるイエスキリストになります。だからイエスキリストが真理になるのです。全66巻の聖書にはいろんな人が述べ1600年間にわたって書かれた書物が編集されていますが、一貫性があります。それは人類救済です。このままでは人間の霊魂が滅びに至るので、神の国の永遠の命が与えられるチャンスが得れる約束なのです。聖書は死後の行方を教えており、倫理道徳の為だけに書かれた書物では無いのです。イエスキリストはこのような信じられないような話を、事実として裏付ける根拠として実証されるために、この世に現れてくださったのです。

最近では、真理と言えばオウム真理教が世間を騒がしました。残念な事に真理と言う言葉が、汚されてしまいました。真理と言うとおかしな宗教みたいに連想されてしまうのですが、もともと聖書の中でイエスキリストが真理だと言います。神の存在、そして神をこの世に具現化した存在が神の御子であるイエスキリストです。

多くの人はイエスキリストが人間だと思っています。  答えはイエスキリストは人間の肉体を所有された神です。十字架に架かる為に肉体を所有された神なのです。                                私がまだ神を知らない子供の時、不思議に思いました。イエスキリストが十字架にかかって死んだのに何故、英雄的存在なんだろう?この人は一体何をして世界中の人々から賞賛されているのであろうかと意味不明でありました。そこを知りたいと思う時がありました。

ヨハネの福音書1:18                                                     「神を見たものは一人もいない、ただ父のふところにいる一人子なる神だけが、神を現したのである。」

またへブル人への手紙1:1~3                                               「神は、むかしは、預言者たちにより、いろいろな時に、いろいろな方法で、先祖たちに語られたが、この終りの時には、御子によって、わたしたちに語られたのである。神は御子を万物の相続者と定め、また、御子によって、もろもろの世界を造られた。
 御子は神の栄光の輝きであり、神の本質の真の姿であって、その力ある言葉をもって万物を保っておられる。そして罪のきよめのわざをなし終えてから、いと高き所にいます大能者の右に、座につかれたのである。」                                                                                                                                      目に見えない神がイエスキリストを通して神を現されたと言う事実が真理になります。 神さまは私たち人類に大きなチャンスを与えてくださいました。私たちの肉体の無くなった後、霊魂はなくなりませんが、その霊魂が父なる神のおられる神の国に永遠の命を持って招いてくださるというのです。そのチャンスが口約束だけでなく、神の御子が十字架で命を掛けた代償のゆえ、罪で汚れた私たちを買い戻してくださったのです。(理解をするには堕落した天使のことを知る必要があります。此処では省略します。)神は命をかけて私たちを愛しているということなのです。すなわち十字架の業は神の愛の現れなのです。これを通して神の愛を知るのです。この神の愛を知って、互いに愛し合いなさいというのが神の戒めになります。 神の愛を知ることによって、愛が大切なことだと悟り、人はそれを実行しようとするのです。(神の愛を知る方法は聖霊によります。)それは親が模範を示して子供を薫陶(悟す)するようなものです。最近の親は私も含めてだらしないので子供の模範になっていないですね。反省です。子供が正しく育つのは結局、親次第なんです。私たちの父なる神は愛の神なのです。だからこそ人間には神様の愛が必要なんですね。                                                                                                                                                     私たちの絶対者、真理である神は、愛を持って神の国を約束してくださったのです。その具現がイエスキリストで、父なる神のもとに行くであり、父なる神を現す真理であり、父なる神の永遠の命を約束してくださる方なのです。この事柄が聖書の中心です。このことを事実として受け止める人は幸いです。必ず人生が喜びに満たされます。生まれてきて良かったと言えるようになります。是非おすすめしたいと思います。

                                                                                                                         2013年5月19日 主日礼拝のメッセージ

「塩を持ち、互いに和らぎなさい」         マルコによる福音書9:50

「塩はよいものである。しかし、もしその塩の味がぬけたら、
何によってその味が取り戻されようか。
あなたがた自身の内に塩を持ちなさい。そして、互いに和らぎなさい。」   
塩
日本の風習に塩を巻いたり、塩を玄関に盛る事が
あります。嫌な客が来たなら、帰った後に塩を巻いて
二度と来るなと言って塩を巻くシーンをテレビドラマ
などで見たことがあると思います。これは、清めるため、
外部からの邪気を払うなどの意味があります。
塩は本来、食品防腐剤として使われるわけです。
干物や漬物などもそうです。
また、味付けるものとしても使われ、食材をより美味しくします。
ある美食家は、肉や魚でも本当にいい食材なら塩を少し付けるだけで
食材そのものの味を引き立てて大変美味しいと言います。
多くの人は塩を他人に向かって巻いて、寄せ付けないようにするわけですが、
イエス様は自分の内に塩を持ちなさい。塩で味付けされた良いものになりなさい
言われるのです。あなた自身の良さをより引き立てるのが塩の役目です。
塩を外に巻くのでは無く、自分の中に持ちなさいと言われるのです。
自身を腐らないようするのです。そして、自分を良い味つけとなって、
互いに和らぐための存在になりなさいという事です。
自分が腐らないとは、いつも聖霊によって神に愛されている事を知り、
自分が神に愛されている尊い宝物である事を悟り、
愛の大切さを忘れないことなのです。
そして、神の愛で味付けられた自身をもって平和を築きなさいということです。
他人を追い払うための塩ではなくて、自分を腐らせないように神の愛の効き目を保ち、
その味の効き目が平和を創り出す存在になりなさい。
                                                                    日本人文化の塩とは真逆みたいですね。
 

2013年5月12日 主日礼拝のメッセージ

「神の国では誰も誇れない」         エペソ人への手紙2:8~10

「あなたがたの救われたのは、実に、恵みにより、信仰によるのである。それはあなたがた
自身から出たものでは無く、神の贈り物である。決してあなたがたの功績ではない。それは、         誰も誇ることが無いためである。私たちは神の作品であって、良い行いをするように、              キリスト・イエスにあって造られたのである。神は私たちが良い行いをして日を過ごすようにと、
あらかじめ備えてくださったのである。」                                           
マラソン
悲しいことに、私たちは生まれると同時に
死ぬ事が定まります。スタートしたとたん、         死のゴールに向かっているのです。
これでは「生まれなかった方が良かった」         と言いたくなる人はたくさんおられると思          います。私も自分の劣等感に押しつぶさ          れそうになり、自分の存在を呪ってしまう         ことさえありました。
死というゴールに向かうマラソンランナーは、       はたして力強く走れるでしょうか?             当たり前の事ですが、人生と言うマラソン
                                 には希望が無いのです。
しかし、神様(創造主)は、私たちをこの世限りの存在として、無駄に造られたのでしょうか?         そうではありません。私たちのゴールに、死後の命を保証する約束をしてくださったのです。
それがイエスキリストによる永遠の命を与える霊魂の救いなのです。この救いをゴールと          知っている人と、ただ死だけをゴールだと思っている人の走り方は全く違ってくるのです。
神は私たちに永遠の命を約束しております。その約束を信じる事ができるように神の御子           イエスキリストを肉体に宿って遣わされたのです。歴史の事実として神の約束が現された           のです。(旧約聖書の預言と歴史の事実が証明)                                                                                                         多くの人は「そんなの死んでみなければわからないじゃないか」と言います。そのような人は
「当たるか当たらないか、わからないので宝くじを絶対に買わない」と言っている人だと言え
ます。(私は実はこういうタイプ)。しかし、くじに当たる希望を手にする人はその希望でワク
ワクするはずです。そのように人生を歩くことができるのです。もっとも、神の救いはくじでは
無く確実です。その値は無尽蔵の富だと聖書は記しています。神の国の永住権が私たちの          ゴールになるのです。                                                                                                                          そしてそれは私たちの功績で与えれるのでは無く、神の一方的な哀れみで信じるもの全てに        与えてくださいます。それは神の御前に誰も誇ることが無いように、すべての者が平等で公平         に愛し合うことができるようになるためです。神の救いの計画はシンプルかつ完璧です。
あなたも救いの約束をどうぞゴールにしてください、もし仮に嘘だとしても希望を信じて生きる         事はプラスになってもマイナスの要素は決してありません。その希望によって、人は正しい道         を歩き、神の良き作品として神の愛の内に完成していくのです。                                                                                                最後に一言、雨が降るか降らないかわからない天気であるなら、傘を持っていく人が賢明な
人ですね。 今、私は生まれてきて良かったと言える日々を歩いています。
神を信じて、儚い人生ではなくなったのです。     希望、価値ある人生と知ったのです。                                                                                                                

2013年5月5日 主日礼拝のメッセージ

「戒めを守れば神とともにある」                第1ヨハネの手紙3:24

「俺は、何があってもお前の見方だ!お前を愛している!」

そう言ってくれる友がいたら最高に素晴らしいです。嘘でもその言葉 嬉しいですよね。

そうイエス様こそ、そのお方です。天地創造主なる神が私の味方というなら、                   一体何を恐れることがあるでしょうか?

誰もキリストイエスにおけ001006る                  神の愛から離すことはできない                と聖書は言ってます。(ローマ書)

そう誰でもです。あなたもです。                この言葉を信じ受け入れる者には、            神の愛が成立しているのです。

その神の愛をどうして感じること               ができるでしょうか?

主が愛されたように、互いに愛し合                             いなさい、そうすればあなたは神の                         うちにおり、神があなたのうちにおられる事を知るようになるのです。

それは神から送られる聖霊様による働きです。

聖霊の働き、賜物はいろいろありますが、最も大切なのは神の愛を知ることです。               使徒パウロは明快に神の愛を求めなさいと語ります。                                 私は実際、悪霊を追い出したことも、病の癒しも、異言も、預言も聖書の書いてあるとおり           現実に体験しましたが、しかしそれらがすごい事ではありません。

が最も大切なのです。

その愛を求め実践することで、神の平安があなたを満たします。

愛することは、まず赦すことから始まります。主の導きがありますように・・・

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今週のメッセージ2013年4月

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2013年4月21日 主日礼拝のメッセージ

「更に父に愛されるために④」                          ヤコブへの手紙4:5~10

私たちは、知らず知らずのうちに高慢になってしまいます。自分は高慢でないと思っていて気づかないうちに人を傷つけていることがあるのです。それは自分を守ろうとするプライドが人を見下げたり、自分より上の人を妬んでしまうのです。人の上に立つ人ほどこのプライドは上げられていきます。知らず知らずのうちに自分の存在を大きなものにして、自分の存在価値を他人に要求してしまうのです。それが自分を神とする高慢さなのです。そしてそれは野心的な欲望なのです。恥ずかしい事ですが、私も周りの人から気づかされた事があります。それに気づいて自分を変えることができるなら幸いなのです。

ブランド小さい例えですが、ブランド物のカバンが好きな人は2種類の人がいます。そのブランドの商品が良いから買う人と、そのブランドの商品を持って優越感を得る為に買う人です。みなさんはどちらですか?

私は若い頃カーステレオを売る商売をしてたことがありますが、多くの人は安くてもケンウッドというメーカーのステレオを買っていきます。ケンウッドのマークがかっこいいからです。しかし同じ価格なら、こちらのほうが音がいいですよと言って勧めても、音の悪い安物のケンウッドを買っていきます。本質を求めないで、見栄を張る人が案外多いことに驚きます。

人は自分を誇示しようとします。これが罪に結びついていくのです。悪魔もこれを利用して神さまから反らそうとします。誇示は高慢になる要素になります。

弟子たちは自分がイエスさまの一番弟子だと言って誇示しようとしました。ところがイエス様は「自分を高くするものは低くされ、自分を低くするものは高められるであろう。」マタイ23:12 いちばん偉い人は仕える人でなければならないと、教えられました。これは、普遍的な真理です。”誰でも”とイエス様は言ってます。神さまを信じる人も信じない人も皆そうなのです。

更にヤコブは言います。「高ぶるものを退け、へりくだるものに恵みを給う」

神は私たちの中に住まわせた霊と魂をこよなく愛しておられます。妬むほど愛していると言われます。欲望から富を望む事により、悪魔の方に行ってしまう。そのような人を妬まれる神様です。しかし、高慢になり欲のゆえに神から離れるようなことがあっても神はそれでも悔い改めて自分の愚かさを知り、神のもとに立ち返るなら、赦して下さり、抱きしめて下さり、めぐみを賜ってくださるというのです。(放蕩息子の話ルカ15:11~)

常に高慢にならぬように自分を点検し、自分を低くして、その姿勢を忘れずに自分を管理できる人は更に神さまの恵が大きいことでしょう。

 

 

2013年4月21日 主日礼拝のメッセージ

「更に父に愛されるために③」                          マタイ25:31~46

どういう人が父に祝福されるのか?

時が来れば必ず全ての人は神の御前に裁きを受けます。ここで言う羊と山羊、右の者、左の者と分けられるとあります。驚くことに後述ではどちらも神を信じている、知っているという信者である事がわかります。

救いの約束は絶対的でイエスキ羊と山羊リストを信じる信仰によって約束の神の国を受け継ぎます。これは、聖書の絶対的な法則です。ですので、消して行いを基準にして救われるのではありません。

ここでは、神の愛と恵みを知り、救われた者はその戒めを守り、善行が伴う真実の信仰者だと明らかにされるということなのです。真実の信仰者は良き実が結ばれていくという結果になるのです。逆に口先で信仰告白をして救われたと信じていても、何もしていないのは偽物だという事になります。何もしないということは結局、何も分かっていないということになります。

救いの完成は肉体が無くなる寸前までわかりません。聖霊により、新しく生まれ変わらなければ実を結ぶことはできません。だから、聖霊は救いの証印 だと使徒パウロは言いました。聖霊によって実を結ぶ信仰者に変えられて行くのです。

神様は聖霊を求めるものには必ずお送りくださいます。聖霊なくしては本物になれないと言っても過言ではありません。

イエスを信じていると言いながら、それが真実なのか、偽りなのかが明らかにされる時が来るのです。父に祝福された人とは、神を愛する=神が愛した弱き小さい者を愛する者だと教えています。

神の戒めは「互いに愛し合いなさい。」です。

神を愛するために、人を愛するのでは無くて、                                       戒めを守る=人を愛することで、知らないうちに神を愛することになっているのです。

よく日曜日の礼拝を守る事で神を愛していると満足している方がおられますが、それは違います。本当の礼拝者は日々の生き様が神の戒めによって生きているかが大切なことなのです。ローマ12:1.2

日曜日の礼拝の後、平気で他人の悪口を言っている人は非常に残念です。

戒めを守り、実践する者が本物であり、父に祝福される人であるという事です。父の御心は良い実を収穫する事です。私たちが父の喜ばれる良い実を結ぼうとするなら、必要な栄養は与えられるのです。

たとえば、土地が、その上にたびたび降る雨を吸い込んで、                        耕す人々に役立つ作物を育てるなら、神の祝福にあずかる。     へブル人への手紙6;7
2013年4月14日 主日礼拝のメッセージ

「更に父に愛されるために②」                       ヨハネ福音書15:1~2&7

父なる神は農夫、ぶどうの木はイエスさま、その枝は神を信じる私たちです。                   ぶどう農夫である父は、実を結ぶことを望んでいます。そのことのために剪定したり、摘蕾、摘果、したり肥料を与えたり、虫から守るための消毒、手入れをされます。そのように私たちの実を結ぼうとするものに手入れをして良い実を結べるように手入れしてくださるのです。私たちが神の前に良い実を結ぼうとするなら必要なものを与えてくださるのです。

時には大きな実を見るために剪定もされます。父は立派な子を育てるために試練も与えられます。それは良い実を結ばせるためです。

いずれにせよ、私たちへの条件は一つです。戒めを守ろうとする心があるか無いかなのです。それは前回もお話したように「私が愛したように、互いに愛し合いなさい」と言う戒めです。

ようするに実を結ぼうとする決心です。

その戒めを守ろうとするものに更に聖霊様をお送りくださり、父の愛を更に知る事ができるようになるのです。人間には愛する力は無いのです。自分を愛するために人を愛せても、自分を愛するように人を愛する事はなかなかできないものです。そこで父の愛を聖霊によって知る事が必要になるのです。それだけでなく、この世での必要なものはなんでも与えてくださるのです。(ヨハネ福15:16.17Ⅰヨハネ3:21~24、5:14.15)極端な話ですが、名誉も富も愛し合うことに必要なら与えてくださるのです。それには父の戒めを守るという意思が大切です。

父の愛を更に体験されたい方は、愛を実践しましょう。愛することが難しいと思える人でも、まずは「愛さなければ」と言う心を大切にすることです。それが神さまの法になります。

良い実を結ぼうとする人に、なんでも求めるものは与えられる神の特別な恵があります。更に自分が父に愛されていることを実感できることでしょう。ご利益をいただくための宗教ではなくて、私たちが良い実を結ぶために父なる神様は与えてくださるのです。

皆さん是非実践してみてください。神秘的な賜物を求める人は多いですが、それよりもっと大切なことです。愛することによって神の愛が全うすると聖書は教えております。Ⅰヨハネ4:11

特に教会の中で妬んだり、いがみ合ったり、憎しみあっているなら、すぐさま心を変えましょう。そうすれば神さまの祝福が更に臨みます。神の祝福がありますように。

  

 

2013年4月7日 主日礼拝のメッセージ

「更に父に愛されるために①」                       ヨハネ福音書14:18~21    

神は、はじめから私たちを愛するために創造されました。私たちはイエスキリストを通して、その方をを「お父さん」と呼ぶことができるようになったのです。これは驚くべきことです。神様が私たちを子供としてくださると言うのです。天地創造主なる神が私たちをDSC07153_R父親として愛してくださるというのです。

父なる神に更に愛される秘訣がここにあります。

弟子であるピリポがイエス様に父を示して欲しいと言うのですが、イエス様は「私を見たのは父を見たのです」と言われました。ヨハネ福音書14:9私たちは月を夜空に見ていますが月の光は太陽の光です。太陽の光が反射して月を見ているわけです。月の形を見ていますがその光は太陽だと言う事です。それと同じようにイエス様を見ているという事は聖霊様を通して働かれる父を見ているということになるのです。これがキリスト教の三位一体です。

イエス様を愛する=父を愛する=戒めを守る=更に父に愛される

その戒めとはなんでしょう?イエス様は言われました。                                   「私が愛したようにあなたがたも愛し合いなさい」ヨハネ福音書15:12

日本語では「愛」という言葉は一つですが、聖書の書かれているギリシャ語では4種類の愛があります。肉親や兄弟家族の愛(ストルゲ)、男女の恋愛感情(エロス)、友情愛(フィリア)、神的愛(アガペ)、聖書の言う愛はアガペの愛です。他の愛は条件付きの愛です。自分の損得勘定で壊れる愛です。しかし、神の愛は無条件の愛で一方的にありのままの私たちを愛してくださっているということです。その愛を所有して愛し合いなさいという事です。

この手本を見せられたのがキリストの十字架の出来事なのです。自分の命を犠牲にしてまで私たちを生かしたい。それだけの価値が私たちの中にあると言う、愛を示してくださったのです。

そこでこの愛を知るために聖霊様が働かれるのです。聖霊によって愛を知り(体験経験)、その愛を実践して行くことで更に父は私たちを愛して、必要なものを与えて良き実を結ばせてくださるのです。

次週、更に深く伝えたいと思います。

 

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今週のメッセージ2013年3月

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2013年3月31日 復活節(イースター)礼拝のメッセージ

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黄泉帰り(蘇えり)        ヨハネによる福音書 6:35~40
イエス様は言われました。

 

「わたしの父のみこころは、子を見て信じる者が、
ことごとく永遠の命を得ることなのである。
そして、わたしはその人々を終りの日によみがえらせるであろう」

 

私が聖書を読んで最もびっくりしたのがこの復活でした。
明らかに神は人類に約束しておられるのです。

 

こんな不思議な約束が明快に記されていることがある事に驚嘆しました。

 

キリストは神でありながら肉所有の人として自らを十字架に掛り、私たちの罪の身代わりとしてご自分の肉体を捧げられました。神の私たちに対する一方的な愛であります。その愛は命をかけて償われたのです。その愛を受け入れるだけで私たちは死から命へと移されて神の前に義としてくださるのです。

 

こんな話が信じられますか?しかしこれが歴史上の事実だったのです。

 

驚くべきことにはヨハネの福音書5:29には、信じる者だけでなく善人も悪人も全ての人がよみがえると記しています。善人は命を受けるために蘇えり、悪人は裁かれるために蘇るとあります。神の最後の審判で古今東西全ての人が裁かれるというのです。しかし、イエスキリストを信じ、新しく生まれ変わった人は裁かれないというのです。

 

キリストはその初穂としてまず最初に蘇られました。朽ちる肉体から、朽ちない体に変わったと聖書は説明してます。(1コリ15章)。先にその約束の証拠をキリストを通して表してくださいました。500人あまりの人が復活のキリストと出会ったと証言しています。また、キリストの十字架にかけられた直後、神を信じて死んだ人が墓から蘇ったとも記されています。

 

信じる私たちにも、永遠の命、朽ちない体、神の御国が用意されているのです。どうしたらいただけるのでしょう。イエスキリストを通して神の国を求めるものに与えてくださいます。

 

主は言われます。「神の国は襲いかかるものよって奪われる」「求めよそうすれば与えられる」
そうあなたにも約束されている事なのです。求めるものには必ず与えられる永遠の命、神の御業に心から感謝いたしましょう。

 

 

 

2013年3月29日金曜日 受難日礼拝のメッセージ

29日の金曜日は受難日イエス様が十字架にお掛かりになった日です。

この映画は私も見ましたが、とにかくムチのシーンは酷い絵でした。ムチのシーンでは涙が止まらなくなりました。「そこまでして私たちを愛してくださるのですか・・・・」と感動で震えてきました。信じていない人にとってはただグロテクスな絵にしか見えないでしょうけれども、知っているものには神の愛と情熱がひしひしと伝わるシーンでした。今までにもキリストの映画はたくさんありましたが、これほどまでにリアルさが表現された映画はありませんでした。「パッション」題名の通り伝わってきました。

”キリストは何故十字架に” と言う疑問は私も小さい頃の疑問でした。全くワケがわかりません。多くの欧米の外国人が信じる理由が必ずあると思いましたが、近所に教えてくださる方はいませんでした。過去日本でも多くの殉教者がいました。特に長崎では多くの殉教者の血で染められました。そこまでして信じることを捨てない宗教って何?死んだら終わりじゃないの?これは気狂いとしか見えないです。

しかし、そこに命を捨ててまで信じれる真実があったのです。信じる向こうには永遠の命が約束されております。その事実を、イエス様が死ぬだけで終わったのでは無く、朽ちない体に蘇ったのです。聖書をとおして、それを事実として私たちに示してくださいました。それだけでなく、現代の私たちにも聖霊様をくださることによって保証してくださると言う事実を体験できるのです。

そう、これを読んでいるあなた!あなたのためにもイエス様は十字架で苦しんだのです。あなたの罪の身代わりとなって、苦しみを耐え忍ばれたのです。神の愛は自分の命を捨てるほどに私たちに臨んでいるのです。これを信じる人は幸いです。神の国で永遠の命を受け取ることができるのです。 心からお勧めします。

 

2013年3月24日主日礼拝のメッセージ

 

シュロノ葉棕櫚の聖日           マタイによる福音書21:5~11

「ドン・キホーテ!?」

今日から受難週に入り金曜日は受難日(キリストの十字架の日)、そして31日の日曜日にはキリストの復活祭(イースター)です。一週間前である今日はイエスキリストエルサレム入場の日、シュロの葉(左の写真)を引き詰めた道をイエス様が子ろばに乗って入場されたのです。

これは旧約聖書ゼカリヤ書9:9で出てくる預言の成就です。イエス様は入場するとき群衆が讚美する中、入場されます。これもまた詩篇118:22~27の成就なのです。

聖書によると(エペソ書1章)神様の御業は、万物が出来る前からキリストのあってすべて計画されていました。予言の成就とは計画が実施されたことなのです。聖書の「預言」というのは、「予言」ではありません。また当たる当たらないの占いでもありません。神様の計画予定が預言者を通して小出しに教えられているのです。極論を言えばこの世や人類がどうなるか神は既に決めておられるのです。子ろば、シュロの葉、群衆の賛美も、決められた計画であってその事がらがイエスをキリスト(=メシア=救世主)として証明する証拠になるのです。旧約聖書にはイエスをキリストとして証明する箇所は400箇所以上もあります。

しかし群衆は、イエスがメシア(キリスト)であって、十字架に掛かりに行くなど誰も思っていなかったはずです。逆にモーセのようにイエスラエルをローマ帝国の支配から逃れ、復興されると期待したのでしょう。群衆はイエス様の数ある奇跡のゆえに神の遣わされた指導者や預言者と見ていたのです。

普通、戦いに勇ましく行くなら、馬にまたがるシーンを想像するのですが、神の計画はロバだったです。人の生活道具として役立つ平和のロバ、それもまだ子どもで人に使われたことのないロバなのです。神は戦いで勝利を納めるために馬にまたがらず、敢えてロバで平和の救いを達成する為に入場されたのです。群衆はそのことに全く気付かず、イエス様のエルサレム入場に神を褒め称えたのです。弟子たちでさえわからなかったので、仕方ないです。この後、この群衆は「イエスを十字架につけよ」と豹変するのです。群集心理とは恐ろしいものですね。悪魔がこれを用いて人をコントロールするわけです。

群衆は本当の意味を知らずに讚美しており、1000年前(今から3000年前)の預言が成就しています。

詩篇の118:23には「これは主のなさったことだ。私たちの目には不思議なことである」とあります。

今私たちは過去の結果が一望できるので、神の摂理の不思議さにただ驚きなのがわかりますがこの時は、誰も知らずに神の計画はイエス様を通して実行されていたのです。キリストの十字架の意味は知る人は未だに少ないのが事実ですが、この事実を知れば誰でも、イエス様を信じるなと言っても信じるでしょうね。そこは理屈でなくて聖霊差の働きなんですね。

私たちもいろんなところで愚かな様に思えたり、困難や艱難、苦難いろんな問題が押し寄せてきます。しかし、そこに神の計画や摂理が必ずあると信じれるなら、私たちはすべてクリアーできるはずなのです。ロバにまたがったイエス様は神の愛を現すための勇者なのです。受難に向かうロバのイエス様は真の勝利者なのです。「魂の命を獲得するために、肉の命を犠牲にする。」神の愛なのです。

肉の命が無くなっても魂を活かすことのできる神様の愛に全てを委ね、人の目からは愚かで不思議ですが、完璧である神に全てを委ねたいとあらためて思わされるシーンです。

 

 

 

 

2013年3月17日主日礼拝のメッセージ

たつおの写真 

信仰とは神の国の先取りである。    

                                             ルカによる福音書 17:20~21

主は私たちに祈り方をおしえてくださいました。
「御国を來せてください、神様の御心が天にあったように地上にもそうしてください」マタイ6:10
この祈りは、私たちがこの地上に居ながらにして、神の国の支配が臨むようにと願いなさいという事です。

 

この地上は神の国ではなく、悪魔の支配する世界だと聖書は断言しており、この中に私たちは知らず知らずに悪魔の住むこの世に生きているのです。その中で神が与える約束をイエスキリストを通して受ける事ができるようにしてくださったのです。その約束とは、神の子とされ、神の国の財産相続権が与えられ永遠の命を保証される約束です。これはおとぎ話のような約束ですが、これを事実として受け取る事ができるように神は求めるものに聖霊を保証として送ってくださるのです。

 

いわば、この世は悪魔と悪霊たち、神に逆らったアダムとエバの罪を背負った私たちが閉じ込められた刑務所のような場所です。私たちは無期懲役を架せられた囚人のようなものなのですが、この刑務所から神の国に移されるという約束が与えられたのです。

 

無期懲役で死を待つだけの人生に、永遠に生きる命をいただけるという恵が現れたのです。死を持って裁かれるべき私たちの身代わりとして死んでくださったイエスキリストを信じればそれでいいというのです。
この確信を得ることのできる方法が聖霊様を祈り求めることです。この聖霊様によって神の国の保障として
送ってくださるのです。これを事実として今現在も体験できるのです。すごい事なのです。
エペソ人手紙1:14

 

主イエス様はこう語られました。「神の国は、実にあなたがたのただ中にあるのだ」ルカ17:21

 

私は小学校の時、遠足が非常に好きで、勉強から解放されるだけでなく、バスに乗ったり、お弁当を食べたり、おやつを食べたりと、前日にはワクワクして夜も眠れないほどでした。おやつは一人300円までと先生に言われて、買いに行く時の嬉しさと来たら最高です。まだ遠足に行ってないのにウキウキなんですね。
バナナはおやつかどうかなんて友達と論争しておりました事が懐かしいです。(私的にはバナナはお弁当箱に入れたらOK)このようにまだ遠足に行ってないけれどウキウキで準備するように、神の国の約束をウキウキで待ち望み、そのために神の国で味合うおやつを準備するようなワクワク感なのです。

 

この、状態を保つことが神の国の先取りだということです。

 

信仰は簡単なんです!遠足に行く子供のように素直になればいいんです。
そうすれば、人生が素晴らしくなってくるのです。

 

希望は失望に終わることはないと、確信できるのです。

 

 

2013年3月10日主日礼拝のメッセージ

愛は恐れをとり除く                            ヨハネ第1の手紙4:13~21

神から愛されている確信は、聖霊からの賜物です。

人間自身の考えではけして神の愛を知ることができないんです。

イエスキリストの十字架を通して神の愛を知ることができますが、

いくら説明を受けても理屈では、こんなこと理解できないんです。

そこで神様にこの聖霊を求める事が必要になります。聖霊によってのみ、神の愛を知る(体験)わけです。

①神は愛である。 ②神が造った人類を愛している ③私たちが互に愛する事で神の愛が全うされる。

この3つの事柄が私たちの内に現れます。

この神の愛の手本を具現的に示されたのがイエス様です。

「友のために命を捨てること。これ以上大きな愛は無い」と語られました。

私たちがイエス様に習って生きる事を示されたのです。

多くの場合、人はどれだけのことをしたのかその功績を見て相対的に判断されます。

しかし、神様は私たちがどれだけ愛したのかと言う事で本物かどうかを見分けられるお方なのです。

神の愛を知ったものは、誰にも裁かれることのない全く別の次元に移されます。

ですから、完全な神の愛である赦しの中にあるものは誰にも裁かれずに平安の中にあるのです。

誰がどう言おうとも神に愛されたものは、誰にも、恐ることなく大胆に強く生きる事が

神の愛の中にあって可能になります。

要するに、創造主である全知全能の神様が味方になってくださった事を知るのです。

特に日本人は霊的に恐るているので、先祖を崇拝します。これによって呪縛される事が多いんです。

これは愛の仕業でないことが明白なのですが、知らぬ間にその虜になってしまうのです。

それだけではありません、社会の中でもパワハラとか体罰等に恐れて我慢している人はたくさんいます。

そのような中で恐れている私たちを強くしてくださるのは、神の愛だけです。

この世で勝つのは誰か?完全な神の愛の中にあるものです。

神の愛の中に入る道は神の御子イエスキリストを信じる他はありません。

心からおすすめします。

 

 

 

 

2013年3月3日主日礼拝のメッセージ

テモテ第2の手紙 1:6~14

 

私たちに賜った 力と愛と慎みの霊に満たされよう!

そうすれば臆病者になれないのです。

あふれる恵、平安、喜びに満たされる神の霊によって

私たちは福音を黙っておれなくなるのです。

今まで食べたことのない美味しい果物を食べたのち

それを知らない人に教えたくなる。福音を伝えるとは

そういう事だと思います。

 

困難の向こうには必ず希望がある

上のヘッダーの写真は息子の道雄君が今から魚を獲りにゆこうとするところです。

この場所は伊勢志摩の大王岬の近くにある市後浜(通称ストロベリービーチ)です。

ここは海水浴禁止ですが、サーフィンで有名なところです。

しかし、奥の浜辺だけは波があまり立たず遠浅なところがあります。

波が立たないのでサーファーもきません。また時々近くの小学生が集団で学校の先生と

海水浴に来るぐらい穏やかなところです。

神様は誰にでも訪れる困難の向こうには、必ず穏やかさを用意してくださっています。

困難に直面したときは、神が見放されたと思ってしまい、神様がわからない時があります。

それでも神様は必ず見捨てないで愛してくれていると信じるのが信仰なのです。

しかし、その困難が過ぎ去ったとき思うんです。乗り越える事ができるようにしてくださったと・・・

その困難は私を強いものにしてくださるための試練であったと・・・感謝が湧いてくるのです。

人の考えでは悪いように思えても、神様は、全てを益としてくださいます。

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