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♡キリストの愛をあなたにも♡

今週のメッセージ2014年4月

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2014年4月27日のメッセージ

「人間の存在理由」

 
私たち人間が何ゆえに存在しているのか?これ
は、大きな問題であり、答えを求めてこれを追
及した人はたくさんいましたが、人間の発生起
源が分からず、その目的も見出せないものだと
結論が出されているようです。

果たして人間は勝手に生まれたのであろうか?
進化論を学んできた私たちは、進化論、それが
正しいと信じさせられたきたので、当然そこに
は自然淘汰と言う言葉で片付けられてしまいま
す。偶然に発生した存在だと言うのです。他に
説明できる理論が見出せない故だと思いますが、
それなら、人間の存在理由など無いのです。

しかし、とてもそんなこと信じられない事です。
なぜなら、自然の法則はそのまま放って置けば
全ての物は朽ちてなくなる存在だからです。魚
が陸に上がって人間になったと言うのです。し
かも最初の生物の発生起源が解明できないので
す。

そして人間が勝手に出来たと言うのは、私たち
に存在理由が無いと言う事になります。しかし、
誰かが造ったというならそこに必ず理由や目的
があります。

私たちは理由も目的も無しに偶然に存在してい
るのだと信じさせられているのです。これが進
化論です。ダーウインも最期には進化論の信憑
性をあいまいにしています。

花蜂ランと言う花をご存知でしょうか?その花
は真ん中に蜂そっくりの形を形成しその上に他
の蜂をおびき寄せる香りまで出すと言うのです。
この花は、目(視覚)も鼻(嗅覚)も無いのに、
どうしてそんな事が分かるのでしょうか?まさ
しく誰かがそのように造らなければ出来ない証
拠なのです。

ヤゴが将来、空を飛ぶトンボになると誰が
教えたでしょう?渡り鳥や遡上するサケはGPS
や地図も磁石も無いのに元の場所に帰れるので
しょう?

人間の耳の中にある三半規管ってご存知ですか
?この構造を知れば自然に出来たと思えと言う
ほうがおかしいのです。

身の周りの自然を見て、神の創造無くしてはあ
りえない事がたくさんあります。たとえば地球
は奇跡の星です。このような星はまだ見つかっ
ていないのです。太陽からの距離が絶妙で、大
気や水があり、四季がある。月がある事、それ
ぞれ絶妙なバランスで存在するのです。これが
偶然に勝手に出来たと言うならそれこそ狂信的
です。

これらが勝手に出来たと言うなら、活版印刷工
場の活字をひっくり返してしまい、適当に並べ
たら、明日の新聞が出来ていたと言うくらいな
のです。

逆に進化論で説明できない多くの事柄がありま
す。それは恐竜と人間の足跡が一緒に見つかっ
ている事です。存在する時代が違うはずなのに
このような化石が出てくるのです。

科学的にも進化論はおかしいのです。

ある人は、進化するように何か大きな力が働い
ていると言う人もあります。その何か大きな力
を「サムシンググレート」と言われます。

聖書においては明快に、
「神は自分の形に似せて人を男と女に造った」
と記しております。人間だけは特別の存在で神
に似せて造られたのです。だから私たちは神の
姿として特別な存在なのです。動物の進化の延
長上に在るものでは無いのです。

私たちは、理由があって存在するのなら存在価
値があります。しかし、勝手に発生したと言う
なら価値が無いのです。命の尊さを明快に出来
ないのです。ですので、獣と同じように弱肉強
食の世界で、倫理道徳の無い食うか食われるか
命の尊厳など必要なしになります。

ある事件がアメリカでありました。銃を乱射し
て無差別に多くの人を殺したとのです。その犯
人は若い学生で周りの人が気に入らないと言う
理由で平気で殺したのです。彼の主張はこうで
した。偶然に生まれた私が、偶然に生まれた人
を殺して何が悪い?ライオンが生きるために弱
い動物を殺すことが赦されるが自然の法則なら、
進化した人間も同じではないかと言うのです。

しかし、この学生は刑務所で聖書を読み、神に
よって存在し神に愛されている事を知り得た後
は、刑務所で模範囚となり人生が変えられたそ
うです。

進化論から生まれる物の考え方は、人間の命の
尊厳を見出せず価値の無い存在に終わってしま
うのです。

では、創造主である神がおられるのか?

聖書は自然の様を見てでも神の存在を認めるこ
とが出来ると言います。ローマ人への手紙2:20

進化論は神が居ないという側に立ってこれが科
学だと信じているだけの妄信的な理論なのです。
なんの信憑性も無いのも事実です。

多くの人は、神のことを学んでも無いのに、神
様と言う存在に結論を出してしまっている事に
問題があります。本当に神がおられるなら出会
いたいと思う心があるはずだと思いますが、す
でに進化論ではそのように思い込まされている
のです。しかし、そのような人でも神社で手を
合わせるのです。

科学は別にしても、人間の創造者を知る事で、
自分と言う存在のアイデンテティーを見出すこ
とが出来るのです。ここが大切です。先ほどの
銃乱射の学生のような考え方をしてしまうのが
神無しの結果なのです。創造者である神様は、
私たちを愛する故に造られたのです。そして、
あなたをももれなく愛しておられます。

私の目には、あなたは高価で尊い。
あなたを愛している。   イザヤ43:3

この世では限りある命としての肉体を作られ愛
しておられますが、その中にある本当の私であ
る霊魂をさらに愛しておられるのです。

この世においては、創造者である神の元に帰る
ために霊魂の訓練があります。それは神の愛を
信じて、その神の愛によって生きることです。

それが霊と真でイエスキリストを信じると言う
事です。人間は神によって造られたので、神様
の手引きが必要です。それが聖書なのです。

「私はいったい誰か?」「何でここにいる?」
「私の価値は?」と言うアイデンテティーを確
立できる唯一の道なのです。それが無ければ生
きる理由、目的、価値を見出せずに存在する理
由がなくなるのです。

どうぞ、創造主の元に進まれるように心からお
勧めします。

By Tatsuo

 

2014年4月20日のメッセージ

「クリスチャンとは」

教会に行く前、クリスチャンと言うイメージは、
非常に特別な人で倫理道徳の極めた人で俗世間か
ら足を洗った人だと言うイメージがあり、私のよ
うな自分のことしか考えない泥臭い人間なんてク
リスチャンにけして成れるものでは無いと勝手に
思い込んでいました。

実はクリスチャンと言う呼び方は、キリストを信じ
る人は、変わっているので信じない人たちが皮肉
でつけた呼び方です。

ですので、自分がクリスチャンですと言う言い
方はあまり好きではありません。
特に、私をよく知っている幼馴染はそのイメージ
は、まったく持たないでしょうね。(笑い)

しかし、神様が本当に居られる(宗教なら要らない)
というなら知りたいと思う心はありました。

クリスチャンと言う呼び方は、特別な人間のように
感じますが、何の事はないイエス・キリストを信じ
神の愛を受け入れた人のことを言います。
そして、自分が弱い汚い罪びとであることを自覚
した者であると言えます。ですから、後光をさして
悟りを開いた仏みたいな人間とか、良い事ができる
素晴らしい愛の深い人だからでなるものでは無いの
です。

その間逆で、罪深い自分であると知ったときにクリ
スチャンになれるのです。なぜなら自分が罪びとと
気づかない限りイエス様のところへ行く必要性が無
いからです。自分が正しいとする人はイエス様を必
要としません。しかし聖書はそれを罪と言うのです。

罪とは被造物の人間が創造主の神を無視して自分を
正しいとすることです。

私が教会に行きだした時、確かに親切で優しい方が
たくさんおられました。しかしそうでない人もいま
したので、がっかりもしました。牧師にこう教えら
れました。教会は罪びとが集まるところです。互い
に裁かないようにしましょう。みんな神様に赦され
た罪人ですから、誰も裁く事はできません。神様が
赦されたので互いに赦し合いましょう。

ですのでクリスチャンは偉くもなんとも無いのです。
人から尊敬されるような存在ではないのです。

私は、植木の仕事をしていますので殺虫剤を撒いて
消毒もしますが、頼まれたお客さんの前でまだ生き
ている毛虫を発見するとすぐにはさみで潰して殺し
ます。そうするとお客さんは「東さんは、クリスチ
ャンなのに~」と言われたことがあります。消毒を
頼んだお客さんにそんな事を言われても困ってしま
いますが、そのようなイメージを持たれるんですね。

クリスチャンは普通の人間です。ゼロからプラスに
向上した人間ではなく、マイナスからゼロに戻され
た人間なのです。アダムとエバの始めの罪の無い元
の存在に戻ったと言う事なのです。そして神の愛と
言葉によって神の子になるべくプラスに成長してい
くのです。

愛されていることを知り、愛することの必要性を神
から学び、失敗しながら訓練され成長し神の子にな
るのです。

私も牧師でありながらも、一神の子として日々訓練中
なのです。

そして、私たちは何処から来て、何ゆえに生きて、
何処へ行こうとしているのか知っている人間です。

簡単に言えば、「本当の神様を知った人間」

それがクリスチャンです。
ByTatsuo

 

 

   復活のメッセージ

「聖書の約束は復活です!」

 

わたしの父のみこころは、子を見て信じる者が、
ことごとく永遠の命を得ることなのである。
そして、わたしはその人々を
終りの日によみがえらせるであろう」。

           ヨハネによる福音書 6:40

 

兄弟たちよ。眠っている人々については、
無知でいてもらいたくない。
望みを持たない外の人々のように、
あなたがたが悲しむことのないためである。
わたしたちが信じているように、
イエスが死んで復活されたからには、
同様に神はイエスにあって眠っている人々をも、
イエスと一緒に導き出して下さるであろう。
わたしたちは主の言葉によって言うが、
生きながらえて主の来臨の時まで残るわたしたちが、
眠った人々より先になることは、
決してないであろう。
すなわち、主ご自身が天使のかしらの声と
神のラッパの鳴り響くうちに、合図の声で、
天から下ってこられる。その時、キリストにあって
死んだ人々が、まず最初によみがえり、
それから生き残っているわたしたちが、
彼らと共に雲に包まれて引き上げられ、
空中で主に会い、こうして、
いつも主と共にいるであろう。
だから、あなたがたは、これらの言葉をもって
互に慰め合いなさい。

   テサロニケ人への第1の手紙4:13~18

 

また見ていると、かず多くの座があり、
その上に人々がすわっていた。そして、
彼らにさばきの権が与えられていた。
また、イエスのあかしをし神の言を
伝えたために首を切られた人々の霊がそこにおり、
また、獣をもその像をも拝まず、
その刻印を額や手に受けることをしなかった
人々がいた。彼らは生きかえって、
キリストと共に千年の間、支配した。
(それ以外の死人は、千年の期間が
終るまで生きかえらなかった。)
これが第一の復活である。
この第一の復活にあずかる者は、
さいわいな者であり、また聖なる者である。
この人たちに対しては、
第二の死はなんの力もない。
彼らは神とキリストとの祭司となり、
キリストと共に千年の間、支配する。

          ヨハネの黙示録 20:4~6

 

このような、聖書の言葉を並べると神話やおとぎ話
のように聞こえるかも知れませんが、この復活信仰
が聖書が約束する希望です。多くの殉教者はこの復
活信仰の希望を信じていたのです。

聖書が語るには

この世はどんどん悪くなります。愛も冷えてゆきます。
戦争も、天変地異も起こります。そんな時、
キリストは再臨すると約束されております。
下にある絵のように空に現れます。
その後キリストが支配する1000年王国が現れます。

復活してキリストと共に支配するとあります。
これが最初に復活する人です。

第2の復活はすべての人が復活します。
最後の裁きを受けるときです。その時キリストを
信じた人は罪赦され、信じない人は第2の死が適応され
ます。それは永遠の地獄と言う場所です。

このような結果にならないように今のうちに
どうぞ、準備してイエスキリストの元に参りましょう。

信じられないと言う事でしょうけれども、本当だったら
取り返しのつかないことになります。

聖書のこの預言の言葉は9割がた成就してきました。
この最後の預言も成就しないはずが無いのです。

お近くの教会へどうぞ確認してください。
本当かどうか求める人は幸いです。

神さまの導きがありますように。

 

 

イエス

HAPPY EASTER!

4月20日はイースターです。

キリストの復活をお祝いする日でございます。

お近くのキリスト教会へお出かけください。

 

 

 

2014年4月13日のメッセージ

「キリストの受難」

詩篇22編1~3【口語訳】

 聖歌隊の指揮者によってあけぼののめじかのしらべにあわせてうたわせたダビデの歌

 わが神、わが神、なにゆえわたしを捨てられるのですか。なにゆえ遠く離れてわたしを助けず、わたしの嘆きの言葉を聞かれないのですか。 わが神よ、わたしが昼よばわっても、あなたは答えられず、夜よばわっても平安を得ません。 しかしイスラエルのさんびの上に座しておられる/あなたは聖なるおかたです

「わが神、わが神、なにゆえ私を捨てられるのですか?」

十字架の上で語られたイエスキリストの言葉です。この言葉、実は詩篇22編の冒頭の御言葉です。キリストのこの世に降りてこられる約1000年前にイスラエルの王ダビデによって書かれたものですが、この詩篇22編には、明快に十字架の預言が書かれております。イエス様は明らかに、今この詩篇22編が成就していると言う事を宣言していると言ってもおかしくないのです。

ある宗教家がこの言葉を聞いて「キリストが神に見放されたではないか、彼は神の子では無い!」と断言されたのですが、この言葉の本当の意味を知らないが故に断言したと言えます。

イエスがキリスト(救世主)であることは何が証明するのか?それは旧約聖書(ユダヤ人の聖書)に書かれている400余りのキリストについて書かれている預言が全部当てはまるのがまさしくこの方なのです。それはありえない確立なのです。それが証明です。

イエス様はこの文頭の言葉をアラム語で「エリ エリ レマ サバクタニ」と叫ばれました。いろんな解釈がされますが、詩篇22編を叫ばれ、今預言が成就したことを示唆されていると言っても過言では無いと思うのです。キリストは十字架にかかるために来たのだと自らの定めを覚悟されていたのですから、このような言葉は不信仰極まりない言葉になります。

しかし、詩篇22編が成就するという言葉ならこれはまさしく神の御業なのです。神の深い愛と計画に基づいてなされたのです。特に「着物をくじで分ける」などの預言はここに成就します。そしてこの22編の最後には神の救いの希望があからさまに讃美されております。

十字架の御業は私たちを「死ぬほど愛しているよ!」と言う神様の表現なのです。そう、あなたのためにも十字架の上で苦しみ耐えられたのです。そんな方が私たちの神様なのです。偉そうに「私が神だから言うことを聞け、言うことを聞かないなら地獄だぞ!」なんて脅す神ではなくて、まず、私たちに愛を示されたのです。そして私たちがその愛に触れることを待っておられます。それは無理やりなやり方ではないのです。

このような、すばらしい方が私たちの造り主、神であるのです。信じる事に躊躇することがあるでしょうか?神の深い愛を受け入れる方は幸いです。

良ければ、20年前に作った私のオリジナルの曲を聴いてください。

オリジナル讃美 「詩篇22編」 クリック!

 

 

 

2014年4月6日のメッセージ

「十字架の意味」

来週は全世界でキリストの受難週になります。 「パッション」という映画を見られたでしょうか? 強烈なキリストの受難シーンがありましたが、 これを見たとき涙が溢れて止まりませんでした。 その涙は深い神の愛と情熱に感動しての涙です。 あの映画で一番印象に残ったシーンは磔刑前に イエス様が鞭で打たれるシーンでした。 肉は引き裂かれて血の海になり、気が狂いそうな 痛みに耐えられたのは一途なわたしたち人類への 愛と情熱を感じたのです。キリストの受難

これを見てから、映画館の前で教会の案内を配布 しました。キリストの十字架の意味を知りたいと 思いませんか?と声をかけながら配りました。

泣いて出てくる人は間違いなくクリスチャンでし た。しかし、多くの人は「気持ち悪かった」とか 「えぐかったね」と気分が悪そうで嫌な感じでし た。確かに理由を知らずしてはわからないことで す。

もし、あなたの犯罪のために自分の身代わりにお 父さんがムチ打たれていたらどう思いますか?こ れは言葉で表せない出来事になります。

最近の若い子がファッションで十字架やドクロの 絵を黒ずくめの中につけています。恐ろしさの印 象を与えて強がっているのでしょうか、わかりま せんが、十字架は本来一番最も重い罪の刑罰です。 かっこいいものでも、美しいものでもありません。 またクリスチャンは十字架を拝んでいるわけでも ありません。十字架の意味は悪いイメージしか出 てこないものなのです。

わたしが老人施設で働いていた時がありまして、 そのときにわたしの話を聞いて洗礼を受けられ救 われたおばあちゃんの家に小さな仏壇があったの で処分して欲しいとお願いされたのです。変わり に拝む十字架をおいて欲しいと言われましたが、 日本人は何か拝む対象が無いとしっくりこないん でしょうね。拝む方は天地に満ちておられてどこ でも拝むことができますよとお伝えしました。 しかし、仏壇を処分できるのにはすごい信仰だと 感心しました。確かに神様は人間の作った箱の中 にお住まいになる方ではありません。

それではクリスチャンは十字架をどう見ているの でしょうか?

それは一言で言うなら「神の愛」です。

十字架そのものを見ているのではなくて、神が人 の肉体を持ってこの世に降りてこられたのは、わ たしたちの身代わりとなって死ぬためだったので す。その事柄を神の愛として受け止めているので す。

なぜ、神さまがわたしたちのために死ななければ ならないの?と疑問に思われると思いますが、わ たしたちの最初の人であるアダムとエバは神の前 に大きな死罪を犯したのです。食べたら死ぬと言 われたのにそれを食べて神様の言うことを無視し たのです。それがわたしたちなのです。そうあな たもアダムの子で神から見れば皆アダムとエバな のです。神のようになりたいと気もちがあったの です。神を無視して自分の好きなように生きたい と思ったこと。これを罪と言うのです。神によっ て作られた人が神のルールを無視した事で死罪が 確定したのです。肉体の死では無く霊魂の死、完 全な滅亡であったのです。

それは、わたしたちにはわからなかったこととし ても、自分が神の前に立ったとき自分には罪が無 いと言い切れるでしょうか?罪とは愛の関係を壊 すことです。わたしたちは殺人を犯していなくて も心の中で人を憎むだけで罪なのです。行動に移 していないだけで罪を犯す思考で罪びとなのです。

その罪を持っては死ぬだけの存在が、神の国に生 かせて下さる方法が提示されたのです。それがイ エスキリストの十字架の死なのです。

キリストの十字架の苦しみは他ならぬあなたのた めでもあるのです。そこまでしてまでもわたした ちを死から救いたいと言う情熱が神の愛です。

神は、ねたむほどにわたし達の内に住まわせた霊 を愛しておられると言われます。

神がわたし達の至らなさを自分の苦しみで、帳消 しにしてくださったのです。いったい誰が訴える と言うのでしょう。それは一緒に罪を犯させた堕 落した天使すなわち悪魔なのです。悪魔を面前で 裁くためにも神様は自分の決められた約束を守ら れる方なのです。

キリストの十字架で悪魔がわたし達の死罪を訴え る事ができなくなったのです。キリストの十字架 を信じる事しか救いの道は無いのです。

十字架を通して神の愛に近ずく人は幸いです。

ヨハネ第1の手紙4:9~10

神はその一人子を世につかわし、彼によってわた したちを生きるようにしてくださった。それによ ってわたしたちに対する神の愛が明らかにされた のである。わたしたちが神を愛したのではなく、 神が私たちを愛してくださって、わたし達の罪の 贖い(身代わりとなる)の供え物として御子をお つかわしになった。ここに神の愛がある。

キリスト教は良い事をするための単なる倫理道徳 の教えでは無く、神様との関係を正しくするため の契約であり、それによって人が神の愛を知り、 神の前に正しく生き、互いに愛し合うことを必要 と知ることなのです。

多くの人は神様を知らなくても愛することが正し いことを知っています。しかし、それを実行する意思 感情、知識が無いのです。キリストの十字架を通してそ れを知り、完成されていくのです。

 

♡キリストの愛をあなたにも♡

今週のメッセージ2014年3月

by

2014年3月30日のメッセージ

「神の御言葉を喜ぼう。」

詩編1:1~3

悪しき者のはかりごとに歩まず、罪びとの
道に立たず、あざける者の座にすわらぬ人
はさいわいである。
このような人は主のおきてをよろこび、昼
も夜もそのおきてを思う。このような人は
流れのほとりに植えられた木の/時が来る
と実を結び、その葉もしぼまないように、
そのなすところは皆栄える。

聞き上手は話し上手とよく言いますが
人の話をよく聞くことでその人をよく知り、
そうしてその人の話を理解して接す
る事で信頼が生まれてくると思います。

ついつい自分の話ばかりして、聞いてもら
おうと自己アピールしますが、まずは相手
の事をよく知るために相手の言葉を聞く事
が大切です。人の話が始まると次に何を言
おうか考えているような人が多いんです。

神様により愛されるためには、神様の事を
よく知らなければなりません。神様の言葉
を聴く者にならなければなりません。聞く
(hear)では無くて聴く(listen)の方です。
ただ単に聞くのではなく、注意深く真剣に
聴き入る事なのです。

そして、神の言葉を黙想するのです。黙想
(メディテイション)とは、同意語で反芻
(ラミネイション)すると言う言葉にも使
われます。牛の草の食べ方は何度も食べて
は胃から口に戻して噛むのです。重ねて思
い返すことです。そうすることで自分の人
生の考え方の基盤を根本的に変える事が出
来ます。神様の考えに近づくわけです。
それが自分の命に直結するのです。

私が神様を信じだした頃、聖書を読むのが
嬉しくて嬉しくて朝の通勤ラッシュの電車
中で嬉しくて感動して涙をこぼしながら読
んでおりました。本物の神に出会い、神の
言葉に触れる事は最高の宝を得た気持ちで
だったんです。

ヤコブ1:21~22
 
ですから、すべての汚れやあふれる悪を捨
て去り、心に植えつけられたみことばを、
すなおに受け入れなさい。みことばは、あ
なたがたのたましいを救うことができます。
また、みことばを実行する人になりなさい。
自分を欺いて、ただ聞くだけの者であって
はいけません。

自分の死活問題になる話でリアルな事と
して話を聴く人は注意深く真剣に聞きます。
しかし、これは別に聞く必要が無いと判断
すると聞いてても聞いてないのです。

まさに馬耳東風です。

人間は神によって存在すると悟れば、神の
言葉に喜びながら真剣に耳を傾けるのです。

例えば私が永遠の命とか、天国の話をしま
すが、知らない多くの人は絵空事でまともに聞か
ないのです。100円で駄菓子屋に行く子
供に100万円の小切手を渡すようなもの
です。人間の小さな脳で決めつけては損を
するだけなのです。

だからこそ、イエスさまは「聴く耳のある
ものは聴くが良い」とおっしゃったのです。
神の約束を信じ求める人には聴くことが赦
されて求めない人には聴くことができない
のです。

そして、神を愛するとはその戒めを守る事
であるとおっしゃいます。神の語られた言
葉を真剣に自分に吟味させるなら、水の耐
えることのない場所に植えられた木のよう
に豊かな実を結ぶようになるのです。神の
声に従おうとする者には、実を結ぶために
神は私達に必要なものを備えてくださる方
なのです。

その最大の実が「愛」なのです。

結果、自分の損得勘定だけで生きるのでは
無く「愛する事」を大切にしたいと心に刻
み込むことになります。

神様の御言葉を自分に吟味させる事で私た
ちは、神の子へと完成されていくのです。

 

2014年3月23日のメッセージ

「光に照らされよう」

ヨハネによる福音書3:16~21

神は、実に、そのひとり子をお与えになった
ほどに、世を愛された。それは御子を信じる
者が、ひとりとして滅びることなく、永遠の
いのちを持つためである。神が御子を世に遣
わされたのは、世をさばくためではなく、御
子によって世が救われるためである。
御子を信じる者はさばかれない。信じない者
は神のひとり子の御名を信じなかったので、
すでにさばかれている。
そのさばきというのは、こうである。光が世
に来ているのに、人々は光よりもやみを愛し
た。その行いが悪かったからである。
悪いことをする者は光を憎み、その行いが明
るみに出されることを恐れて、光のほうに来
ない。しかし、真理を行う者は、光のほうに
来る。その行いが神にあってなされたことが
明らかにされるためである。

①光に照らされる

最近、6畳の居間に12畳用のLED の電灯に
交換しました。蛍光灯の寿命が来たのですが、
特殊な蛍光灯でかなり高かったので、安いLED
を探しました。早速使ってみましたが非常に
明るく本も見やすくなりました。しかし、汚
いところが目立つようになったのです。慌て
て掃除をしたのです。

光に照らされると目に見えなかった汚い部分
が見えるようになります。それまで、わかっ
ていたのですがあまり人目に付かないからい
いかなと思っていたのですが明るくされると
これは恥ずかしいのです。

イエスキリストは全ての人を照らす真の光だ
と言います。

光が射すと、暗闇の中で分からなかった事が
あからさまにされます。自分の汚れている部
分が分からずにいた事に気づくのです。光に
照らされる事で、自分を掃除する人は幸いで
す。光に近づくことができるからです。

「白い巨塔」というドラマが流行りましたが
病院の保身ゆえの隠蔽工作の話です。人は誰
でも良心があり正義感があります。しかし、
明るみにそういう正論を言っていると生きて
いけない事情が必ずどこにでもあるのです。

闇の中でも既に自分の汚さを分かっている人
は(自分が分かっていて悪を行っている人)
は中々暗闇から出ようとしないのです。その
回数が増えれば増えるほど汚さが麻痺して当
たり前のようになり、その人を蝕んでいきま
す。それは最後には自分が生きていくための
正当化さえするのです。それが当たり前にな
れば、もしあなたがその病院のスタッフなら
どうでしょうか?

その悪の正当化は暗闇から光を憎み寄せ付け
ないのです。逆に、自分を正当化するために
光の存在を陥れようとします。これが悪魔の
本質です。私たちは暗闇で同じ穴のムジナに
なってはいけないのです。悪魔は人の実生活
の弱みに付け込み、光の方に行かないように
働きかけます。

こういう目立った罪は無いにしても、人は年
を取れば取るほどに見えない罪の自覚が増え
ます。全知全能の神の前で私には罪が無いと
言い切れる人がいるでしょうか?私ももちろ
ん恥ずかしいほどの立派な罪人なのです。し
かし赦された罪人となったのです。

②赦される神の愛を受ける

光に照らされる時、私たちは自分の汚さをも
っと知ることになります。神の御言葉によっ
て裁かれるのです。もし、自分を砕き神の前
に近づくならイエス様はそんなあなたのため
にこう言ってくださいます。

「私は貴方を決して裁かない、あなたの罪の
ために身代わりとなったのですから。安心し
て私の下に来て休みなさい。」

と言ってくださるのです。

赦されたなら、その人の罪悪を帳消しにして
リセットボタンを押されたようなものです。
新しく生まれ変われるのです。

この赦しを受けるために、自分が赦されるべ
き人間だと知る必要があります。闇な中から
出ようとしない人は自分の汚い部分をさらけ
出せず、常に自分が正しいと正当化しようと
する傲慢さが、プライドが、神の光に近づこ
うとさせないのです。特に真面目に一生懸命
努力して自分の力で自分を築き上げた人ほど
自分を信じて、神様の御言葉に耳を貸すどこ
ろか自分の正しさを押し付けます。私も神様
を紹介するのにお勧めしますが、決して自分
の考えではありません。神様の恵みを伝えて
いるだけなのです。イエスさまは「聞く耳の
あるものは聞きなさい」と言われます。

神様は闇の中から出て来て、私の下に来なさ
いとおっしゃっているのです。アダムは罪を
犯したゆえ隠れました。しかし今や隠れない
で赦してくださる神の近くに行く事これが人
生の成功者になれるのです。人生の成功者と
は自分の考えを捨てて神の元に帰ることです。

③自分を自分で砕く

神様は、自分を崩し謙遜なる者に恵みをたま
います。それは自分の立場と位置をわきまえ
た人なのです。

陶器が陶器師に「なぜお前は俺をこんな風に
作ったのか?」と文句を言えば陶器師は思い
のままにこの陶器を処分するでしょう。陶器
師には造り主として権限があるのです。創造
神の視点に立って物事を考えると私たちが神
の前にどのような存在かはお分かり頂けるこ
とと思います。

多くの人は自分中心で神を見ます。自分の理
想の神様を想像して自分に都合の良い神を勝
手に作り出すのです。これが聖書の言う罪な
のです。神様は「自ら有って有る方」だと申
されます。この世は創造神が中心なのです。

創造神に向かって、文句を言うあなた。また、
神が愛なら信じなくても黙っていれば救って
くれると勝手な事を思うあなた。それは完全
に間違っているのです。(私も初めはそう思
ってました。)

神様の意思に沿わなければ私たちの存在価値
が無いのです。それを聞いて怒る人がいます。
「そんな神なら要らない」と、しかしその人
は理想の神様を勝手に描いているだけです。
神は私たちの想像の産物では無く、自ら存在
されるお方なのです。それが分かった時、素
晴らしい神の恵みと平安が支配するのです。

これは、人間が高慢にならずに神を愛して、
人を愛する神の国の住人となるために必要な
神の御旨なのです。全ての人が人として生き
る存在価値は神様に掛かっております。私た
ちが神の光に照らされなければ、我々は闇の
中のままで、時が来ればこの闇は処分される
だけなのです。それが聖書の神のご計画です。

ですから、わたしたたちは闇から脱出するた
めに光の元へ、主イエス様の元へと近づきま
しょう。私たちが近づくなら神様も近づいて
くださいます。しかし、拒絶し離れようとす
るなら、神様から遠ざかるだけなのです。

ぜひ、闇から脱出するために、光の神に近づ
きましょう。自分の汚い部分を見つけ出し洗
う人は幸いです。まずはキリスト教会へ集う
ことからです。御言葉を聞く耳を持つことです。

そして神を信じていると言うあなたも日々、
神をそばに感じてください。そうすればあな
たはこの世の勝利者(誰にも支配されず不安
な要素を取り除かれる)になれるのです。

ヤコブの手紙4:10
主の御前でへりくだりなさい。そうすれば、
主があなたがたを高くしてくださいます。

神様があなたを神の子として輝やかせて下さ
るのです。

 

 

 

2014年3月16日のメッセージ

「世の光となる」

マタイによる福音書5:14~16

あなたがたは、世の光である。山の上にあ
る町は隠れることができない。また、あか
りをつけて、それを枡の下におく者はいな
い。むしろ燭台の上において、家の中のす
べてのものを照させるのである。そのよう
に、あなたがたの光を人々の前に輝かし、
そして、人々があなたがたのよいおこない
を見て、天にいますあなたがたの父をあが
めるようにしなさい。

私たちは、青空が覆う昼間と暗闇の夜の中
を生活しておりますが、昼間は仕事に出て
活動し夜は家で休息をとります。昼間に活
動しているので昼間が本当の世界のように
見えますが、実は夜が本当の世界なのです。
地球は大気に覆われた奇跡の星です。これ
が無くなれば昼という存在はなく宇宙と言
う暗闇しか無く、夜が本当の世界なのです。
実に昼間は仮想空間と言う事になりますね。

夜は何も見えないので、活動できないので
すが、光があれば動くことが出来ます。夜
の航海は何を頼りにするのでしょうか?そ
れは光です。灯台の光、そして昔の人は星
を頼りに自分の位置を知り航海したのです。

この世は暗闇の中にあります。光が無けれ
ば何も見えないのです。多くの人は目が見
えるという事が当たり前に思っているかも
しれませんが、太陽の光が無いと目は全く
役立たずで、目が見えているのではなくて、
見える為に光に助けてもらっているのです。

その光の有難さも、昼間と言う光に満ちた
当たり前の世界にいるから光の有り難さに
気づけないのです。

昔、私は夜の森の中、キャンプ場の駐車場
に一人で車を止めに行って戻ってくるとき
懐中電灯を持ってくるのを忘れたのです。
引き返すにも、360度真っ暗で全く何も見
えません。これほど恐怖に襲われたことは
初めてでした。仕方がないので感で真っ直
ぐに歩きましたがすぐ右には崖があったの
で本当に怖かったです。しかし、しばらく
行けばキャンプ場の明かりが微かに見えま
した。この時の光の有り難さはなんとも言
えない平安を覚えました。このことで「光
の元へ」と言う曲を作りましたのです。

イエスさまは、「私は世の光です。私に従
って来る者は、闇の内を歩くことがなく命
の光を持つであろう」とおっしゃいました。

多くの人は、この闇の夜では真実が見えず
に方向が分からずに生きています。誰も自
分の命の確信が無く無意味にただ彷徨って
いるだけなのです。闇の中でどっちへ行っ
たらいいのか、手探りで答えを見いだせな
いままうろうろしているだけでそのうち死
がやってくるのです。年を取れば取るほど
この虚しさに襲われるのです。しかし、命
の光を見つけた人はもう迷うことが無いの
です。歩き方がわかるからです。つまづく
事が無くなるのです。その人は闇夜を航海
する灯台や星をとらえたのです。この世に
は真理(絶対なる事柄)がありません。た
だ、イエス様だけが真理であり、命であり、
道であり、光なのです。

私たちは闇夜でもう彷徨わなくて良いので
す。もちろん、あなたにもその光が差し込
んでいるのです。

そして、光を見てその方向へ向かうならば
命を得るのです。私達のために暗闇に月を
用意されました。月の光は太陽の光の反射、
それはイエスキリスト。キリストを見て父
なる神を見たのと同じ如く、今度は私たち
が神の霊によってこの世に輝く星ぼしとな
って神の栄光を現していくのです。父なる
神の輝きけるように恵みを与えてください
ます。溢れるばかりに恵みを与え続けて源
泉かけ流し温泉のようにあふれて溢れる恵
みを多くの人に与える事が出来るようにし
てくださる方なのです。

そのように神の恵みに満たされて生きる人
こそ真の礼拝者なのです。イエスさまは私
たちにも「世の光」になりなさい。とおっ
しゃいました。それが聖霊に満たされて生
きることなのです。それが神様の御心です。

「どうぞ、私を神の光で輝かせてください。
そのために神の霊によって満たしてくださ
い!」 日々求めつづけ、祈りましょう!
必ずあなたを新しくしてくださいます。

あなたを、溢れるほどに恵みを与えてくだ
さるのはあなたを通して神の素晴らしさを
お伝えしたいからです。自分に責める事が
あったとしても、私なんかと思わずに躊躇
せずにどうぞ求めてください。

闇の夜の光となれる力を与えてくださるの
は神様の御心なのです。

この世の暗闇の道標になるのです。

あなたの遣わされた場所で輝いてください。

まずは微笑みから・・・・

 

2014年3月9日のメッセージ

 

「恵みの管理人」

礼拝を捧げる救われた友を見るたび
に本当に嬉しく思います。友が神様
に恵まれているのを見てこちらも嬉
しくなってきます。

聖ペテロは私たちを
「恵みの管理人」と言います。

私たちは、クリスチャンだと外部の
人から宗教者のように思われがちで
すが、特別な存在ではありません。
宗教をしているつもりもありません。
私は宗教をしているつもりはありま
せん。生きておられる唯一の創造者
を信じているだけです。良いことを
行ったからクリスチャンでもありま
せん。

神様の愛と恵みを知り受け取った人
間。ただそれだけなのです。

こんな意地汚く、どうしようもない
ありのままの私を愛してくださる
天のお父さんだと知ったのです。
私たちを一方的に愛して下さり、
命の主権者である神様はキリストの
犠牲の故に命を保証してくださると
いう法則を啓示してくださったので
す。

神の前にマイナスであった私をゼロ
に戻してくださり更に聖霊によりて
プラスにしてくださる。

この世の存在理由が分かった。
生きる意味が分かった。
生きる価値があるのだと知った
生まれてきて良かった。
生きてて良かった。
大きな神の愛の中で命が与えられた
事を知り得たのです。

愛する人が、この事実を知り
神に恵まれることが私の喜びです。

私は「恵みの管理人」です。

日曜日の礼拝に出れない人も多くい
ます。日曜日の礼拝に参加する事で
救われるのではありません。
神はその人の信仰(神の愛を真実に
受けとめている関係)を見られます。

私はそんな人のためにもその人の
都合に合わせて家庭礼拝を積極的に
しています。その人が神の恵みを
ますます得ていただき分かち合うた
めです。「恵みの管理人」の仕事で
す。

自分の中に神様の恵がキープするこ
とがこの地上での信仰生活です。そ
して神がどれだけ大きな愛を私たち
に持っておられるかを多くの人に示
すこと。このことが神様の意図なの
です。私たちがキリストを通して掲
示される神の慈愛により完成されて
行き、一人でも多くの人が神様の
愛を知って神の元に帰る事が父の御
心です。

あなたの中に神の恵みがいつも管理
されているでしょうか?祈りと御言
葉と賛美で神様の恵みで満たされま
しょう。それは神様の御意志なので、そ
のために神様は必要な物をお与えに
なります。

あなたがたは自分の罪過と罪との中
に死んでいた者であって、そのころ
は、それらの罪の中にあってこの世
の流れに従い、空中の権威を持つ支
配者として今も不従順の子らの中に
働いている霊に従って、歩んでいま
した。私たちもみな、かつては不従
順の子らの中にあって、自分の肉の
欲の中に生き、肉と心の望むままを
行い、ほかの人たちと同じように、
生まれながら御怒りを受けるべき子
らでした。

しかし、あわれみ豊かな神は、私た
ちを愛してくださったその大きな愛
のゆえに、罪過の中に死んでいたこ
の私たちをキリストとともに生かし、
──あなたがたが救われたのは、た
だ恵みによるのです─キリスト・イ
エスにおいて、ともによみがえらせ、
ともに天の所にすわらせてください
ました。

それは、あとに来る世々において、
このすぐれて豊かな御恵みを、キリ
スト・イエスにおいて私たちに賜る
慈愛によって明らかにお示しになる
ためでした。

あなたがたは、恵みのゆえに、信仰
によって救われたのです。それは、
自分自身から出たことではなく、神
からの賜物です。行いによるのでは
ありません。だれも誇ることのない
ためです。

私たちは神の作品であって、良い行
いをするためにキリスト・イエスに
あって造られたのです。神は、私た
ちが良い行いに歩むように、その良
い行いをもあらかじめ備えてくださ
ったのです。

エペソ人への手紙 2:1~10

何よりもまず、互の愛を熱く保ちな
さい。愛は多くの罪をおおうもので
ある。不平を言わずに、互にもてな
し合いなさい。あなたがたは、それ
ぞれ賜物をいただいているのだから、
神のさまざまな恵みの良き管理人と
して、それをお互のために役立てる
べきである。

ペテロ第1の手紙 4:8~10

♡キリストの愛をあなたにも♡

今週のメッセージ2014年2月

by

伝道所移転礼拝 036

2014年2月23日

「一美ちゃんお帰りなさい。」

事情により大阪へ転移されていた一美ちゃんが帰ってきました。この写真は11年前、西木辻で教会堂建築の合間に祈祷会の写真です。一緒に賛美している一美ちゃんは手前です。ご主人の昇天を機会に帰ってこられました。再会は何より嬉しいことです。お帰りなさい。

 

 

2014年2月23日のメッセージ

「子を育てる親の愛」

■子供の育て方20

1親が人の悪口を言うと、
 子供も悪口を言います。
2けなされて育つと、子どもは、
 人をけなすようになる
3とげとげした家庭で育つと、
 子どもは、乱暴になる
4不安な気持ちで育てると、
 子どもも不安になる
5「かわいそうな子だ」と言って育てると、
 子どもは、みじめな気持ちになる
6子どもを馬鹿にすると、
 引っ込みじあんな子になる
7親が他人をうらやんでばかりいると、
 子どもも人をうらむようになる
8叱りつけてばかりいると、子どもは
 「自分は悪い子なんだ」と思ってしまう

9励ましてあげれば、
 子どもは、自信をもつようになる
10広い心で接すれば、
 キレる子にはならない
11誉めてあげれば、
 子どもは明るい子に育つ
12愛してあげれば、
 子どもは人を愛することを学ぶ
13認めてあげれば、
 子どもは自分が好きになる
14見つめてあげれば、
 子どもは頑張り屋になる
15分かち合うことを教えれば、
 子どもは思いやりを学ぶ
16親が正直であれば、子どもは、
 正直であることの大切さを知る
17子どもに公平であれば、
 子どもは、正義感のなる子に育つ
18やさしく思いやりを持って育てれば、
 子どもは、やさしい子に育つ
19守ってあげれば、
 子どもは、強いに育つ
20和気あいあいとした家庭で育てば、
 子どもは、この世の中はいいところ
 だと 思えるようになる

アメリカインディアンの教え
ドロシー・ロー・ノルト/詩
(「子どもが育つ魔法の言葉」の著者)
ニッポン放送加藤諦三by名言

私もそうなんですが、日本ではこういう
教育を学校では教えてくれないんですね。
昔は子供の育て方を経験してきたおばあ
ちゃんがお嫁さんに教えてくれたもので
すが、核家族化で、おばあちゃんのアド
バイスも無くお嫁さんもなかなか受け入
れない事が多いですね。

子供の絶対的な指針というのは親にある
のですが、その親の姿を見て子供は育ち
ます。どんな親に育てられるかで決まる
のです。親が変わらなくてはダメなので
す。よく「うちの子は~」と愚痴をこぼ
す親は多いですが、それは自分の巻いた
種なんですね。子供は親の鏡だと言いま
す。私も息子の姿を見て反省させられる
事が多いです。

若い頃、私は子供の育て方なんてさっぱ
り分からず、勝手に大きくなるものだと
思っていました。

神様を信じてからは、神様が魂の父だと
知り、その父の愛を知り得たことで自分
も親としてこうでなければならないと言
う指針ができました。

聖書の御言葉は真理です。人間の取扱説
明書(マニュアル)と言っても過言では
ないです。文頭のような教えや、聖書の
御言葉も素晴らしいのですが実行するに
は、言葉を実行する力が必要なのです。
それが愛と言う燃料でありエネルギーな
のです。

子供を愛を持って育てるためには、まず
自分も愛されてきた一親の子であった事
に感謝できてこそなのです。

私事ですが母親が余命6ヶ月と言われて、
母親に対して今まで育ててくれた愛を思
い返しました。この世で一番私を愛して
くれた人です。半年間、私はできる限り
の事を母親にしました。これは私にとっ
て本当に幸いなことでした。

愛されている事を悟ったたとき、人は誰
かを愛する心が湧いてきます。子供に対
しても同じだと思うのです。親の愛が子
に、子の愛が孫にとリレーをするのが理
想です。しかし、子供を虐待する結果が
今の日本の子育て事情で、ニュースに流
れるのは氷山の一角でしょう。

愛されている恵みを所有した親が、子供
には必要なのです。ところがその愛が欠
乏している子供は愛を受け継げずに、ど
んどん愛は冷えてゆくのです。愛が無く
ても肉体は大きくなりますが、心は貧し
くなります。この愛を伝えて、愛のリレ
ーが耐えないようにするためには、誰で
あっても神の愛を受ける必要があるので
す。

神の愛は、親の愛です。子供のために自
分を犠牲にできる愛です。その愛を知る
事ができるようにしてくださったのがイ
エスキリストの十字架の出来事だったの
です。この愛を知り得る事で、素晴らし
い親子関係ができるのです。

文頭に語った良い教えは、理解できても
愛と言う燃料が無ければ作動できないの
です。

神は愛の源泉なのです。

愛する者たちよ、私たちは互いに会い合
おうではないか。愛は、神から出たもの
である、すべて愛する者は、神から生ま
れた者であって、神を知っている。愛さ
ない者は、神を知らない。神は愛である。

      ヨハネの第1の手紙4:7,8

 

 

 

 

2014年2月16日のメッセージ

 

「愛そうとする力が無い!」

私は神様をまだ知らなかった時
愛することは良いことだとわかっていても
愛する力、実行力がありませんでした。
ただ自分が生きるために、相手を大切にしな
いといけないとしか思っていませんでした。

しかし、神様を知るようになって愛すること
の大切さを知るようになりました。もちろん、
愛するとは誰であっても大切にすると言うこ
とです。男女の恋愛関係を超えるものです。

大げさですが自分を犠牲にして人のために愛
せるか?昔「愛と誠」と言うドラマがありま
したが若い青年は、愛する彼女のために、
「君のためなら死ねる」と言ったセリフを
今でも覚えております。死んだら、愛せない
じゃないか?と思った事があります。

人は命をかけて他人を愛せるか?そんな事は
綺麗事だと思っていました。関西の漫才風で
言うなら「そんなやつおらんやろ~」ですね。

私自身は、キリストを知る前は愛するなんて
みんな偽善者だ!必ずどこかに自分に利益が
あるはず。善を行う人には必ず裏で自分の利
益を計算しているものだと考えました。特に
私は商売をしておりましたので利益追求を求
めるために嫌な人でも頭を下げるのです。で
すので人に頭を下げるのは簡単にできる方で
した。しかしこれは業務上だったのですが慣
れてしまいますね。みなさんも、表面では近
所の人といい顔で挨拶するのに影では悪口言
ったり、批判したりしてないでしょうか?子
供がそれを聞くと同じように人を見下すよう
になりますので気をつけなくてはなりません。

また、自分の食べ物も無いのに、他人に分け
てあげられだろうか?自分の命が保証されな
いのに人の命を心配していられるか?自問自
答を繰り返すだけだったのです。

ドイツの哲学者エイリッヒフロムは言ました。
「その人が必要だから、その人を愛する。」
それは未熟であり、成熟した愛は
「その人を愛するから、その人を必要とする」

前者は自己利益の為の愛で、後者は相手を愛
するゆえに大切にすると言うのです。

私も、神を知らないときは前者の考え方だっ
たのでしょう。人を愛するのは自分の利益だ
けで図っていました。汚い自分に嫌気がさし
ますがみんな同じだと思っていました。

愛とは何か?実際、愛のお手本が無いのです。

しかし、神様は本当の愛を示してくださいま
した。それが御子イエスキリストをこの世に
送り、私たちの身代わりに死ぬために十字架
にかかりにこの世に肉体を取って来られたの
です。

わたしの事を命を捨てるまでして愛している
方がおられたのです。それが人の姿になって
来られた神であるイエスキリストなのです。
これを教会で教えられた時には、イエスキリ
ストとわたしが何の関係があるのか理解でき
ませんでしたが、ある時、キリストの絵を見
ていると「お前の為にも私は苦しんだんだ」
とわたしの心に響いたのです。その時涙を流
して神にリアルに感謝し嬉しくて泣いてしま
いました。私をどれほど愛してくださってい
たのかという事を実感したのです。これが聖
霊の働きだったのです。

神様が人間を神の国に置いて天使のように造
らなかったの理由がここキリストの十字架に
あります。敢えて、朽ちる弱い肉体で造られ
たのです。

それは、さておき
神が命をかけて愛されている事を現されたの
です。その愛によって互いに愛し合う信頼関
係を築き、平和な神の国を造る事が目的です。
それがキリストの十字架なのです。

私たちが、愛し合う力はここにあります。極
端な話、愛が無ければ、獣のようであって、
食うか食われるか。食われたら死んで、強い
ものだけが生き残る社会。それまでの世界に
なっていくのです。神無しの進化論はこうい
う社会にたどり着くのです。

しかし、本当の私たちである霊魂が生きるた
めには、必要なのが愛なのです。これは、非
常に重要なことです。神の愛という霊魂のエ
ネルギーが充填されなければいけないのです。

人間をお造りになった神は、人間の生き方と
して愛することをキリストの身を持って現さ
れたのです。

神を信じるとは、神の愛を受け入れてそれに
習う者になっていくということです。
真の礼拝者であるためには、この神の戒めを
守って実行しようとする力が必要なのです。

それが、造られた私たちが完成に向かう方法
なのです。

この実行力を与えてくださるのが、神から送
られる助け主=聖霊様なのです。

わたしたちの神は、なんと、素晴らしいお方
なのでしょう。この方を信じない理由はどこ
にも無いはずです。あるとすれば私たちの間
違った習慣や言い伝えであり、周りの人目を
気にすることです。先祖を敬うことは正しい
ことです。しかし、先祖も神に愛される存在
であり、神にはならないのです。人の目より
も神の目にかなうようにすれば私たちは本当
に価値ある生き方に変われるのです。

神の戒めである、愛する必要性を胸に刻み守
る時に、神は更にあなたのうちに聖霊により
て愛されている事を満たされていくのです。

あなたは恵みの管理者です。愛と恵みと平安
の中で立てられるのです。この喜びを伝える
事が私たち愛された者の使命なのです。

キリストは、私たちのために、ご自分のいの
ちをお捨てになりました。それによって私た
ちに愛がわかったのです。ですから私たちは、
兄弟のために、いのちを捨てるべきです。世
の富を持ちながら、兄弟が困っているのを見
ても、あわれみの心を閉ざすような者に、
どうして神の愛がとどまっているでしょう。
子どもたちよ。私たちは、ことばや口先だけ
で愛することをせず、行いと真実をもって愛
そうではありませんか。それによって、私た
ちは、自分が真理に属するものであることを
知り、そして、神の御前に心を安らかにされ
るのです。たとい自分の心が責めてもです。
なぜなら、神は私たちの心よりも大きく、そ
して何もかもご存じだからです。愛する者た
ち。もし自分の心に責められなければ、大胆
に神の御前に出ることができ、また求めるも
のは何でも神からいただくことができます。
なぜなら、私たちが神の命令を守り、神に喜
ばれることを行っているからです。神の命令
とは、私たちが御子イエス・キリストの御名
を信じ、キリストが命じられたとおりに、私
たちが互いに愛し合うことです。神の命令を
守る者は神のうちにおり、神もまたその人の
うちにおられます。神が私たちのうちにおら
れるということは、神が私たちに与えてくだ
さった聖霊によって知るのです。

        ヨハネ第1の手紙3:16~24

 

 

2014年2月9日のメッセージ

↓ここをクリックすればYOUTUBEで聞けます。

聖霊を送りたまえ

「聖霊を送りたまえ」

だれであっても、求める者は受け、
捜す者は見つけ出し、
たたく者には開かれます。
あなたがたの中で、
子どもが魚を下さいと言うときに、
魚の代わりに蛇を与えるような父親が、
いったいいるでしょうか。
卵を下さいと言うのに、
だれが、さそりを与えるでしょう。
してみると、あなたがたも、
悪い者ではあっても、
自分の子どもには良い物を
与えることを知っているのです。
とすれば、なおのこと、天の父が、
求める人たちに、どうして聖霊を
下さらないことがありましょう。

      ルカによる福音書11:10~13

聖霊をくださる事、

私たち人類を創造された父親の計画です。
すなわちそれは死にゆく私たちの霊魂に
永遠の命を与え神の子孫となる事、これ
が神のアブラハムへの約束なのです。
それは今から4000年前の話で、2000年後
聖書の400余箇所に記された預言通り
イエスキリストを通して実現されました。
(ガラテヤ書3:14)

また聖霊を知ろうとしない、求めようとしないから
与えられないとあります。
(ヨハネ福音書14:15~17)

聖霊が降れば、確かにイエスは主であると告白しまた、

賜物として異言や癒しのちからも現れます。
教会の働きも賜物です。

しかし、これは偽預言者でも現せるのです。
(マタイ7:11)

聖霊様の感化感動は外からも有りますが
内需する事は別だと言えます。
事実イエスを主だと告白したとしても
救いの確信がなく神様の恵がない人を
多く見ます。信仰を無くする人もいます。
それどころか賜物を現しながら残念なこ
とに信徒をいじめたりして罪を犯し、自
分を守るために信徒を陥れる牧師までい
るのです。

大切なことは、その人の実なのです。
普段の素行からわかるのです。聖霊の
実(ガラテヤ5:22)で一番大切なのは
「愛」です。これが神様の法なのです。

そして、御霊の実はいろいろ有りますが、
「自制」セルフコントロールです。
(ガラテヤ5:16~18)自分ではできない御
言葉を実行させようとする力です。これが
必要です。「敵をも愛せよ」とか言われて
も「そんなことできるか!」「ギャフンと
言わせてやる!」の答えはごく普通でしょ。
しかし、しようと思うことができなくなる
のが自制なのです。本当は悔しいけれど、
忍耐し御言葉を実行する方向にいくのです。
本当に敵を愛するのでは無くて御言葉に
従う力が結果として愛に結びつきます。
無理に愛そうとしているので偽善者のよう
な感じに思えますが、結果が大事なのです。

そして「罪と義と裁き」について
聖霊により明快にされます。
(ヨハネ福音書16:7~11)

「罪」キリストにおける神の愛を信じないこと。
「義」聖霊を受けて神の子とされる恵みを受ける事。
「裁」我々の為でなく悪魔の為である事。

更には、復活の力も聖霊にあります。

救いの保証は、
信じた後に受ける聖霊様にあるのです。

新しく生まれ変わるとはこのことなのです。
(ヨハネ3:3)

いかがでしょう、私たちには聖霊様、すな
わち助け主を送っていただくことがどれ
だけ大切な事なのかを・・・。

イエスを主だと告白できたから聖霊様が
来られてもう大丈夫と言うことは無いの
です。常に祈り求めることが必要です。
聖霊様は悲しんだり、消えたりすること
があるのです。だからこそ求め続けまし
ょう。

「聖霊を送りたまえ」

1 誰もが幸せを求めて探して生きている
見回しても、この世は暗闇荒れ果てて。
希望と喜びと愛に満ちた聖なる国
その御国への道は 主イエスにのみ
声を上げて御子を誉め歌おう主イエスを!
★聖霊を送りたまえ、
主の栄光をこの地上に
聖霊を満たしたまえ、
主の恵みをこの地上に!

2 主は私の慰め主、主は私の希望の道
主は私に喜び恵みを
与えてくださる永遠まで
主は私を愛して、主は私にちから与え
主の救いを宣べ伝えよ
声を上げて御名を誉め歌おう主イエスを!

Br求めよ主イエスを、主よ送りたまえ聖霊を

★聖霊を送りたまえ、主の栄光をこの地上に
聖霊を満たしたまえ、主の恵みをこの地上に!
聖霊を!聖霊を!聖霊を!送りたまえ!

この歌詞は
15年前にアメリカのクリブランドにある
LEEカレッジキャンパスクワイヤーの
ワーシップ曲を聞いておりましたら、
この歌詞を勝手に口ずさんでいました。
本当はこの歌詞の内容では無いのですが、
そのように思い巡らされて口から出たのです。
これを歌うと私は、全てのネガティブが
吹っ飛びます。神の恵で満たされます。

父なる神は

「求めてくるものには、なおさら聖霊を
贈らないはずがあろうか・・・」

誰でも求める者には必ず与えられます。

だからこそ、求め続けるべきだとお勧めします。

聖霊が与えられないのは求めようとしない
からだとイエスさまは言われます。

常に聖霊様を求める心を持つことを心からお勧めします。
神の真実の愛をこの地上に現し給え!
祈りながら歌っております。
みんなでこの歌を高らかに歌える日を
願っております。

聖霊によって私たちは新しく生まれ変わります。

神様の素晴らしい愛と恵みと平安があなたを包みます。

そうです。この世に新しく生きる力を得ましょう!

天国の力をこの地上に!

 

 

 

2014年日のメッセージ

真の礼拝者シリーズ

②他人を裁くな!

 さばいてはいけません。さばかれないためです。
 あなたがたがさばくとおりに、あなたがたもさばかれ、
 あなたがたが量るとおりに、あなたがたも量られるからです。
 また、なぜあなたは、兄弟の目の中のちりに目をつけるが、   
 自分の目の中の梁には気がつかないのですか。
 兄弟に向かって、『あなたの目のちりを取らせてください』
 などとどうして言うのですか。見なさい、
 自分の目には梁があるではありませんか。
 偽善者よ。まず自分の目から梁を取りのけなさい。
 そうすれば、はっきり見えて、兄弟の目からも、
 ちりを取り除くことができます。

                     マタイによる福音書7:1~5

ここで言う「裁いてはいけない」と言うのは、意味なく人の
上げ足をとったり、自分を正当化する為に相手を批判したり、
相手を傷つけるような事をしてはいけませんと言う意味です。

パリサイ人や律法学者のように、自分たちがさぞ偉いかのよ
うに無情に人を裁いていく様子がそれです。

もちろん、その後の御言葉にあるように、偽預言者を警戒
しなさい、聖なるものを犬にやるな、と批判することも神は
大切な部分として教えております。対人関係を保つためにも
警告は必要です。日本人は事勿れ主義の中であまり他人に干
渉しません。分かっていても目をつぶっていることが多いの
です。お互い様だと言うので寛容になれる事は良いと思いま
すが、いざこざを避けるために見て見ぬふりも多いでしょう。
際たる悪がいじめですね。

人は、自分を正当化するために人を批判し自分の正しさをア
ピールします。また、自分の権威を保つために相手の所為に
して他人を恐ろしいまでに裁きだすのです。

相手の事情を全く配慮せずに自分の基準で裁いていく、自分
の正しさは相手に通用するとは限りません。他人を裁くあな
たは自分の基準で人を判断しているのです。その人はいつの
間にか自分が神様になっているんですね。しかし、神は最後
にはあなたを裁かれる時が来るのです。

神様は「互いに赦し合いなさい」と言われました。神様は私
たちを造り生んだ本当の親です。子を持つ親の気持ちになれ
ばわかりますが、兄弟げんかの絶えない兄弟に願う事は仲良
くしてくれることです。父親である神様もそのように見てい
るわけです。

私が子供の時、弟と良く兄弟喧嘩をしましたが、母親はいつ
も「あんたら2人とも悪い」でした。「お前が悪い!いいや
お兄ちゃんの方が悪い!」との言い合いでした。

結局いつも、母親はお兄ちゃんだからと言う事で、私が謝っ
て終わらされていました。おかげで兄貴は損だが、強いほう
が謝れば和解できると言う方程式がいつの間にか私の心に
「先に謝る人が強い人なんだ」と言い聞かせておりました。
おかしなもので先に謝ると、必ず相手も謝りますね。

神様も親心として同じなのです。まず私たちは神様の前では
すべて不完全な者として誰にも裁く権利を与えていません。
不完全な者同士は赦しあうことしか出来ないのです。裁き合
うことでは平和は訪れませんが、赦し合うなら平安が訪れる
のです。

私たちの罪(不完全さ)はアダム以来、全人類に課せられて
います。その報酬は「死」です。肉体の死では無く、霊魂の
永遠の滅びです。死を選んだのはアダムなのです。神の言葉
を無視したのです。私たちはそのアダムの子孫なので全てに
死が課せられたのです。その死を御子イエスキリストの命と
引き換えに赦されたのです。

先ず神が、キリストのゆえに裁かないと言われたのです。

神が私達を裁かれないと言うなら私たちは誰を裁く事ができ
るでしょうか?私たちが神より偉いのでしょうか?自分の罪
が赦された事を知ったとき、人を裁く事ができなくなってし
まうのです。

神が人を裁かないと言うのに、私たちが人を裁くとはこれは
有り得ないことです。私たちは皆赦された罪人、罪人同士が
裁き合うのは滑稽な事です。私たちに託された詔はただ「私
が愛したように、互いに愛し合いなさい」「私が赦したよう
に互いに赦し合いなさい」

神が私たちをキリストの死のゆえに赦してくださっている、
この深い愛を知り、自分の罪を赦された恵みを知ったなら、
人の為に良いアプローチができるものなのです。目の梁を
取り除くとはそういうことです。

PS.赦すとは、その人の行った犯罪を見逃す事では無く、その
人が謝罪するなら憎しみや怒りの感情を放棄し、水に流すと
言うことです。神の愛で赦すのです。神の法で赦されても、
この世の中で生活する以上、この世の法律で服さなければい
けませんのでご注意ください。

♡キリストの愛をあなたにも♡

今週のメッセージ2014年1月

by

2014年1月19日のメッセージ

真の礼拝者シリーズ

①汝の敵を愛せよ!

半澤直樹の人気はすごかったですね。
私も毎週楽しみに見ておりました。

「やられたらやり返す、倍返しだ!」

というセリフが決まり文句になってますね。

しかし、聖書で神様はこう言われました。

「悪人に手向かうな。右の頬を打たれたなら、
 他の頬も出してやりなさい」
「汝の敵を愛せよ!」「相手を赦してやれ!」

全く、違う事が語られます。

果たしてこんなことができるのでしょうか?

神様が全てご存知で,神が必ず報復してくださ
ると信じる事で可能になります。やられっぱ
なしで無く、必ず最後には勝利できるのです。

まず、神が真実で本当に信じる事です。
人間が造った神ではなく、人間を造った神が
居られるという事実です。それは、体験しな
ければわかりませんが、目で見える形ではイ
エスキリストが神の約束を明らかにしてくだ
さいました。なおかつ目で見えないですが、
求めるものには聖霊を各自に送ってください
ます。聖霊を受けた人間しかわかりません。
聖霊によって更に神の愛を体験できます。

物理的にもこの神の教えは素晴らしいことです。
それは最近、脳科学が進み分かってきたことで
すが、脳は主語が判別できない部分があるそう
です。ですので、相手を憎んだり、恨んだり、
相手の不幸や失敗を願うことや発言は自ら嫌な
気になってしまうのです。逆に相手の幸せや成
功を祈ると自分もそのように感じるそうです。
相手を愛する事はまさしく自分を愛している事
になっているのです。

私も、めぐみのメッセージを語っていると自分
が恵まれてきます。役得ですね。

だからイエス様も

「自分を愛するように隣人を愛しなさい」

と言われたのです。これは人間の脳システムに
最適なアドバイスになります。素晴らしいです。

また時には神様はこの世に悪を敢えて放置する
ことで神の義と愛を現してくださいます。そし
て私達を神の子として成長させてくださいます。

半澤直樹の第4話で、支店長の悪を見抜きギャフ
ンと言わせました。しかし、半澤はこの支店長に
も愛する家族生活がある事を見たのです。半澤は、
自分の家族を潰された悲しみを持っています。そ
の悲しみを自分と同じように味わわせたくないと
思ったのでしょう。その支店長の家族のゆえに赦
したのです。その結果、支店長は完全に修復され
ました。

神様も、悪人を裁くのではなく修復する事を望ん
でおられます。人は生まれつき悪人などおりませ
ん。神は人を良き者としてお造りになりました。
しかし、この世の欲望が人を悪人に変えてしまう
のです。この世には悪魔の誘惑があります。
しかし、その誘惑に誘われるのはその人の意志に
よります。人には、間違った意思をもたぬように
神様の戒めが必要なのです。

悪魔はもともと神に仕えていた天使です。その天
使が神に反抗して自分も神になりたいと、人を支
配しようと企んでいるのです。

欲望を持って人を操る悪魔に対しての戦いは、
私達被造物が神様の愛を信じて従う事が如何に大
切なことかを知らしめる事なのです。

  だれに対しても悪をもって悪に報いず、
  すべての人に対して善を図りなさい。
   あなたがたは、できる限りすべての人と
   平和に過ごしなさい。
   愛する者たちよ。自分で復讐をしないで、
   むしろ、神の怒りに任せなさい。
  なぜなら、「主が言われる。復讐はわたしの
  することである。わたし自身が報復する」 
   と書いてあるからである。
   むしろ、「もしあなたの敵が飢えるなら、
   彼に食わせ、かわくなら、彼に飲ませなさい。
   そうすることによって、あなたは彼の頭に燃え
   さかる炭火を積むことになるのである」。
   悪に負けてはいけない。
   かえって、善をもって悪に勝ちなさい。
  

                ローマ12:17~21   

 

 

 

2014年1月12日のメッセージ

真の礼拝者とは

真の礼拝者たちが霊とまことによって
父を礼拝する時が来ます。今がその時です。
父はこのような人々を礼拝者として求めて
おられるからです。
          
       ヨハネによる福音書4:23

この聖書の箇所はサマリヤの女性がイエスと
出会った時に女性が質問した時の答えなのです。
「本当はどこで礼拝をすればいいんですか?」
の答えは、場所は関係なく父を礼拝するときが
来ます。それは今です。と語られたのです。

サマリヤの井戸の前でそう語られたのです。
そこでイエスさまは真の礼拝者とは霊と誠に
よって父を礼拝するものを求めておられると言
われ、それが今来ていると言うのです。

このサマリヤの女性は罪人だとよく解釈されて
いますが、それはさておきこの女性は信仰が
あったのは確かなのです。キリストの到来を待
ち望み、それを分かるようにしてくださると信
じていたのです。その上に真の礼拝を捧げたか
った故あのような質問をしたと思われます。

ここで言う礼拝とはギリシャ語でプロスクネオ
で足元にひれ伏して謙ってキスをするような態
度の表現の意味です。心から真剣に神の前に出
ると言うことです。皆さんはどのように礼拝に
臨んでおられるでしょうか?私は礼拝の成功は
まず讃美と祈りにあると考えます。

また別の箇所では使徒パウロが礼拝の言語は、
ラトレイヤと言うギリシャ語で書かれておりま
すが、「仕えると」言う意味もあります。英語
では礼拝をサービスと言いますが、これはラテ
ン語のサーバス(召使いの意)から来ています。

礼拝者というのは、その時その時の礼拝の時間
に儀式に参加したら良いというものでは無くそ
のお方に仕える姿勢の人間を言います。もちろ
ん、礼拝そのものも神様に向かう大きな手段で
す。疎かにしてはいけません。しかし、決定的
に私たちの人生そのものが180度変えられて
しまうのです。生き様が全く変えられるのが礼
拝者になるのです。これが救われた者の姿勢に
なるわけです。

このサマリヤの女性はキリストと出会えると言
う念願を果たしたわけです。純粋なユダヤ人と
見られずにさげすまされたサマリヤ人もメシヤ
(ギリシャ語でキリスト)を待ち望み霊とまこ
とで真実に神の救いを待ち望んでいたのです。

果たして、このサマリヤの女性は真の礼拝者と
して成功し喜びに満たされたはずです。この女
性は喜びのあまり多くの人々にメシヤが来たの
だと伝えた回ったのです。

イエス様に出会うことは、待望の救い主に出会
うことであり、この喜びが真の礼拝者に変わる
のです。この世の全てにかけがえの無い価値を
得た喜びを黙っておれずに伝えるのです。

最後に使徒パウロはこう言います。

そういうわけですから、兄弟たち。私は、
神のあわれみのゆえに、あなたがたにお願いし
ます。あなたがたのからだを、神に受け入れら
れる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。
それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。

         ローマ人への手紙12:1

私たちは、生きるも死ぬも主の為なのです。何
人も神の法則から抜け出る事はできません。そ
れを悟りそこに自分の価値を見出せば真の礼拝
者として、父の戒めを守る者を父は更に祝福さ
れるのです。

戒めとは、

「私があなた方を愛したように、
 あなた方も互いに愛し合いなさい」

救われた礼拝者はまずこの戒めを守るのです。

 

 

2014年1月5日のメッセージ

この世の勝利者となるために

わたしがこれらのことをあなたがたに話したのは、
あなたがたがわたしにあって平安を持つためです。
あなたがたは、世にあっては患難があります。
しかし、勇敢でありなさい。
わたしはすでに世に勝ったのです。」

                  ヨハネによる福音書16:33

皆様、2014年あけましておめでとうございます。
今年は徳川幕府禁教令が発足されて400年目になります。
40、400、4000と言う数字は聖書では一つの
節目です。苦難の中からの開放される時だと信じます。
2014年日本にとって素晴らしい年になれるようにお祈り
致します。

さて、私たち人間はこの世で生まれた瞬間に死ぬことが
定まっております。これは新しい命が生まれたと言う
素晴らしい事柄なのに悲しいことに同時に死が宿命と
なります。人間は死ぬために生まれてきたのか?そんな
ことなら最初から生まれなかった方が良かったと後悔する
人も少なくないはずです。私もそんな思いになった事は
確かにあります。

人はこの世に生まれたからは死と言う問題に勝てないの
です。この死というマイナスの力が私たちにまとわり付い
ています。

確かに肉体の死はクリスチャンであろうとなかろうと
全ての人に与えられますが、イエスキリストは十字架に
かかった後3日目に朽ちない体に甦ったのです。
神の力で、死という力を無効にされたのです。

肉体の死後に永遠の命を保証されたのです。

私たちは自分を守るために、罪を犯すことになります。
獣は、誰かを犠牲にして自分を活かそうとします。
これを弱肉強食と言います。進化論を信じる人は人間も
動物と何ら変わらない存在と言う事に考えます。そうな
れば、自分を守るために人を蹴落とすことを正当化させ
ることになります。事実そう信じて殺人する人が多い
のも事実です。

殺人しなかったとしても、人は自分を生かすために罪を
犯し続けてしまうものなのです。多くの偽りは自分を
守る故です。

しかし、どうでしょう。永遠の命が保証されるというのなら、
その命を保証してくださる方、その命を実証してくだ
さった方の言葉を聞き入れてみないでしょうか?

私は幼い頃、ジェットコースターが怖くて絶対に乗りま
んでした。しかし大きくなってジェットコースターは、
絶対安全な乗り物だと確信してからスリルを楽しむ事が
できるようになったのです。命の保証の確信を得たから
乗る事ができるようになったのです。(ところが事故が
起きてからは怖くて乗ったことが無いです。)

その命を保証してくださる方は、万物の創造主、
その方が主イエスキリストです。その方がおっしゃる
には「私を信じ、私に従いなさい」でした。
主イエスに従うとは、主イエスの言われた事を行うことを
言います。その御言葉は

「互いに愛し合いなさい」

これだけです。

イエスを信じると言いながら、人を憎んでいるなら
それは自分を偽り者と定めていることになります。
主は敵をも愛せよおっしゃいました。

愛するとは、人の機嫌をとることが愛することではあり
ません。人のいいなりになることでもありません。他人
に調子を合わせると言うことでもありません。YESマンに
なる事ではないのです。主イエスの御言葉は

「自分がしてほしいと思うことを他人にもそうしなさい」

と言う事です。人によって基準は違いますが、積極的に
人に働きかけて行くという事です。これが黄金率になり
ます。お節介な人は嫌われるかもしれませんが、それでも
良いと思うことをすれば必ずその人の心が伝わるのです。
故に、私もイエス様の福音を伝えております。

この戒めを守る人がすなわち神を信じる人の行動になる
わけです。この世の死の力を超えて生きる力がここに
あります。

互いに愛することで、命を勝ち取る。「命の保証」その
平安を得る事が全ての問題に打ち勝つ強さになります。

歌の文句ではないのですがまさしく

「愛は勝つ」なのです。

「万物は神から出で、
 神によって成り、
 神に帰するのである。」

これは聖書ローマ書のパウロの言葉です。この絶対の法則が
あると知るならば、愛する事が絶対的な命の法則となるのです。

最後にヨハネの第1の手紙5:2~5

 5:2 私たちが神を愛してその命令を守るなら、そのこと
   によって、私たちが神の子どもたちを愛しているこ
     とがわかります。
 5:3 神を愛するとは、神の命令を守ることです。
     その命令は重荷とはなりません。
 5:4 なぜなら、神によって生まれた者はみな、
     世に勝つからです。
     私たちの信仰、これこそ、世に打ち勝った勝利です。
 5:5 世に勝つ者とはだれでしょう。
     イエスを神の御子と信じる者ではありませんか。

今年、あなたにとってこの御言葉を実践する事によって
命と平安を確保されること心からお勧めいたします。

♡キリストの愛をあなたにも♡

今週のメッセージ2013年12月

by

2013年12月29日メッセージ

求めさえすれば神に出会える

  主は天から人の子らを
 見おろして、神を尋ね求める、
 悟りのある者がいるかどうかをご覧になった。
                                        -詩篇14:2-

私が神様を信じる事が出来たいきさつです。
最初は確かに同級生の友に伝道されましたが、
にわかに信じることなんてできませんでした。

娘のアトピーが神様に癒されたというのです。
聖書の預言通りキリストが再臨して、キリストを
信じる者は天国に行き、信じないものは滅びると
言う生死に関わる切羽詰る内容でした。

普通ならこんなこと信じないのですが、聖書と言う
書物は昔から非常に気になり、何が書いてあるか
興味が起こり、しばらく教会に行ってみることに
しました。

そこで見たのは、病の癒し、悪霊の追い出し、
また不思議なことばかりでした。しかし、これが
聖書に書いてあることがそのまま行われていると
いうことでますます聖書を知りたくなり
また、神様が本当におられるなら知りたいと
思いました。

私の毎日の祈りはこうでした。
「この鈍感な私でも神様を知る事ができるように
してください。」この祈りだけでした。本当に神が
いらっしゃるなら私に示してほしいとお願いした
のです。1ヶ月経っても何もないなら神様は要ない
し、信じる価値も無いと決めようと思っていました。

果たして、そうこうしているうちに、私にいろんな
不思議な事が起こり始めました。信じざるおえない
事柄が次々に起こったのです。ある日、膝に溜まった
水で痛みをこらえて教会の礼拝に参加した時、
瞬時に癒された事がありました。これには驚きました。

その上に、聖書に書いてある通りに聖霊が私の中に
触れられました。これが神の愛を悟った時でした。
十字架の意味も分かりました。十字架は私のためでも
あったとわかったのです。その時、神の深い愛と恵が
私を包みました。それは味わった者しかわかりません。
ただ嬉しくて嬉しくて喜び泣きました。経験したもの
しかわからないことです。

あなたも神様の事を聞いたとき、探し求める祈りが
必要なのです。求めなければ神は霊であって、決して目
で見えることはありません。もっとも、私は偶然にも
キリストが映った写真を持っています。それを見せても
信じない人は信じません。(見たい人はお見せまします)

真実が聖書にあります。神が造られた人間の霊魂は
神の元に帰るべきなのです。神は生きておられると誰か
に聞いたなら探すべきです。求めるべきです。是非お勧め
します。決して宗教ではありません。本当に神が生きてお
られると私は200%300%断言します。「何故神が生き
ているなら神の方から助けてくれないの?」と聞く人は多い
ですが、神は既に救いと愛を啓示されました。それがイエス
キリストの十字架です。これを見て神の愛を信じる人は幸い
です。死から命に移されるのです。死後地獄にて滅びない
ように神の愛を示されたのです。信じるだけで救われます。

しかし、伝える人がいなくては信じようもありません。

私の目的は信者を増やすことでは無く、教会組織を大きく
したいという私の野心でもありません。一人でも多くの人が
神の救いを得て神の国に行けるようになる事です。

この世や肉体はやがて亡くなります。しかし、神の国は永遠
なのです。永遠のために信じ生きる事は今を生きる力になり
ます。180度あなたは変わります。生まれ変われるのです。

いくら石油の埋蔵している土地を与えられても、掘らなければ
それは手にできないのです。神と出会える人は掘る人です。

神様、そうイエス様との出会いを心からお祈りします。

 

 

2013年12月22日メッセージ

キリストご降誕

イエスキリストがこの世にご降誕された場所は、
家畜を飼っている汚い所でした。

キリストはベツレヘムに生まれると聖書の預言
がありました。ナザレに住んでいたヨセフとマリアは
住民調査のためにローマに支配されていたユダヤ人に
生まれ故郷に戻るようにと命令がありました。これは
キリストがベツレヘムに生まれると言う預言が成就す
るために、神様はローマの政治をも動かされる方なの
です。偶然は何一つありません。神の計画は預言通り
です。

ヨセフとマリアはキリストが生まれると確信し、すべ
てを神に委ねていたのです。身重であるのにベツレヘム
までの長旅を拒まず、綺麗な場所を選んでキリストが
生まれる準備もできなかったのです。住民調査のために
多くの人が宿に泊まり空いている宿が無く、やっと着い
たのが家畜の飼われているところでした。

そこで生まれてしまうことになるのですが、そこになんと
天使から知らせを聞いた羊飼いと星を頼りに東方からの学者
がキリストのご降誕を祝うためにやってきました。汚い家畜
小屋がすばらしい場所となったのです。これはマリヤとヨセ
フにとってはさらに大きな確証となった事でしょう。

クリスマスのモニュメントと言えば世界中ではこのシーンを
飾ります。汚い飼い葉おけに置かれたキリストを囲む、
マリヤとヨセフ、東方の学者、羊飼いです。

そして、さらにはキリストとして確証させる人物はシメオンと
アンナという敬虔なユダヤ人で、神殿にいたシメオンはキリスト
が現れるまで死ぬことは無いと聖霊に示しを受けていました。
彼はマリヤに言いました。

ルカによる福音書

 2:28 すると、シメオンは幼子を腕に抱き、神をほめたたえて言った。
 2:29 「主よ。今こそあなたは、あなたのしもべを、みことば
   どおり、安らかに去らせてくださいます。
 2:30 私の目があなたの御救いを見たからです。
 2:31 御救いはあなたが万民の前に備えられたもので、
 2:32 異邦人を照らす啓示の光、御民イスラエルの光栄です。」
 2:33 父と母は、幼子についていろいろ語られる事に驚いた。
 2:34 また、シメオンは両親を祝福し、母マリヤに言った。
   「ご覧なさい。この子は、イスラエルの多くの人が倒れ、
   また、立ち上がるために定められ、また、反対を受ける
   しるしとして定められています。
 2:35 剣があなたの心さえも刺し貫くでしょう。
   それは多くの人の心の思いが現れるためです。」

異邦人とはユダヤ人以外ですから、全世界の人々だと言うこと
です。キリストは全世界の人の救い主としてお生まれになるが、
それは英雄になってこの国を治める喜ばれる輝かしい王になる
とかではなくて、反対を受ける存在になり、ユダヤ人も多くつ
まずき辛い事になると言われたのです。そして、キリストを通
して多くの人の心の思いが現れるためだと言うのです。

この思いとは何でしょう?キリストが十字架にかかる事によっ
て現れる神の人類への愛であるのです。神であるのに自らを低
くし、私たち(アダムの子孫)の罪の身代わりとなるため降りて
来られた神の贖いの供え物イエスキリスト。

私たちに送られた神の最高のプレゼントだったのです。

これだけの、多くの証人が確証を与えて偶然に発生したとは言
えない。神の計画により整えられて実現した神の救いなのです。

さあ、あなたもクリスマス!
神のみ救いを受けて感謝して信じましょう!

 

 

2013年12月15日メッセージ

本当のクリスマス

早いもので、もうクリスマスです。
子供の時はクリスマスは何の日かよくわから
ないけれど小さいながらもみんなで飾り付けする
クリスマスツリーとお菓子のいっぱい入った赤い靴
をもらって喜んでおりました。

キリストの誕生祭であるクリスマスですが、
何故、イエス・キリストがすごいお方なのか
多くの日本人は知らないので、ご紹介します。

名はイエスで、キリストは称号です。大統領等
の選ばれた人に与えられる呼称です。
キリストの意味は救世主であり、救い主です。

クリスマスはキリストが誕生すると言う言い方は
少しニュアンスが違います。正確には降誕(こうたん)
すると表現した方が良いでしょう。

何故なら主イエスの存在は聖書が説明するには
天地創造の前からあり、彼が創造主であり天地創造を
されたと記されています。(コロサイ人への手紙1:15)

その上、主イエス自身も「アブラハムのいる前から
私は居るのです」と断言されます。アブラハムは
キリストの降誕された約2000年前の人です。今から
約4000年前の人でイスラエル人の父祖です。
こんなことを言うイエスは全く気狂いじみているか
冗談であるか、または本当に神であるかなのです。
しかし、このイエス・キリストを世界の3割の人が
信じているのです。

神の御子イエスの目的は人類最初の人アダムの罪
(これにより全人類が有罪となりました)の代償として
十字架に掛かり死ぬ為に救世主としてこの世に約束通り
降りて来られたのです。それがクリスマスです。
アダムの罪は創造主である神を無視して生きようとした
ことです。エデンの園での出来事は皆さんも聞いた事が
あると思います。そのために、人は皆神から離されて
生きています。(簡単に言えば羊飼いのいない羊がさま
よって狼などの危険にさらされている状態です)それは
全人類の祖先アダムの罪の故なのです。私達日本人も
アダムの子孫ゆえにアダムの罪を受けたまま生まれてき
ています。

この罪の代価は死であると神は言われました。主イエスは
その死を人類に要求しないで自ら、人の姿になり
ご自分の死によって、私達の死を免れさせてくださる
計画を実行されたのです。

神でありながら人の肉体を所有してこの世に
処女マリヤから降誕されたのです。主イエスがこの世に
降りて来られたことは、私達にとっては神の一方的なめぐみ
であり、永遠の命のもといです。
しかし、イエスキリストにとっては十字架の苦しみを
覚悟しなければならない事が決定された日だったのです。

これがクリスマスです。

この日は神の全人類への愛を実行された喜ばしい日なのです。
私達を愛するために自ら命を投げ出す。それが私達の神様
なのです。そうです、あなたのためにも主イエスは苦しみを
受けられたのです。こんな素晴らしい愛を持った方が私達の
神であるのです。この主イエスの神の愛を受け入れ信じる者
だけがアブラハムの約束を成立させます。アブラハムへの約
束は、全人類誰でも神の子となり神の国の住人となることな
のです。その約束を受入れる方は幸いです。

これが神の福音です。

「信じないと救われないの?」とつぶやく人は残念です。

聖歌128番「God rest you merry」のクリスマスキャロルを
1994年にマライア・キャリーがボーナストラックとして
特別に入れた大ヒットしたクリスマスCDがあります。
これには感動しました。

クリスマスはメジャージョイでハシャギ喜ぶ時でなく、
マイナージョイで心からの深い喜びと神の愛を心から
感謝して神を慕う日だと言いたのです。

 

2013年12月8日メッセージ
「わたしの目には、あなたは高価で尊い
 わたしはあなたを愛している。」

                           イザヤ書43:4

あるテレビ番組で、自分に価値を感じるかと言うアンケートに
アメリカ人は50%で、日本人は僅かに10%を満たさないという
ことでした。アメリカ人は少しできたら自分はできるのだと
ポジティブな考え方をしますが日本人は9割できても1割でき
なければダメなんだとネガティブに考えます。

そんな日本人の物づくりの姿勢は世界的にも認められているところです。
少しでも問題があればより良い商品をつくろうと徹底する企業が
多く、日本人消費者のネガティブ思考により求められる完成度が
高いです。日本人はその競争で多くの良い企業が生まれました。

神は私達人間を素晴らしい価値あるものとしてお作りになりま
した。何のとりえがなくても、素晴らしい人でなくても、造っ
た方は私達の存在そのものに価値をお持ちなのです。
自分自身が不遜な者だと劣等感に悩まされても、創造者があなた
を高価だと言われたなら、誰がどう言おうと最高の存在になる
のです。

3歳までの子供が愛されて育つ子と、愛されずに育つ子では、
その子の人生は全く違うものになります。愛されて育つ子は
自分に価値を抱くからなのです。最高の権威を持った方が、
目に入れても痛くないほどあなたを愛していると言ってくださ
るのです。神はそのようなお方なのです。

重要な事は、その価値ある人間が造り主を覚えてその愛に気付く
ことを神様は待っておられます。

私達の良さは何処にあるのでしょうか?神が私達に喜びを感じ
てくださる事で価値が生まれます。むづかしいことはありません。
神は全知全能なので私達に求める事はただ1つです。

「創造者としての神が私達を愛してくださって、神から見て
私達が価値ある存在なのだとが信じることなのです。」

私達の存在は必然であり、偶然では無いと確信するのです。
進化論によって、偶然の存在だと信じさせられている私達。
それは、価値の無い存在だと諦めるしか無い虚しい理論
なのです。

私達は、愛されるために生まれてきました。これは信仰の最も
大切なことです。神の愛はどうして分かりますでしょうか?
十字架で犠牲になられたイエス・キリストを知ることなのです。

どうぞ、お近くの教会にてイエスキリストの十字架の愛に答え
を求めてください!必ず、神の愛を知り、あなたの価値をあなた
自身が知ることでしょう。

あなたは、間違いなく神から価値ある存在として愛されるために
生まれてきたのですから、それを知らなければ・・・・
ただ損なのです。

逆に神などいないと断言出来る人はいないと思います。その証拠に
人は誰でも苦しい時、必ず祈ります。これは神を知る心が人の心に
プログラムされているからのです。

神の愛を求めてください。そうすれば必ず判ります。

人に最も必要な事は 信仰、希望、愛 だと判ります。

自分の価値を神によって見出してくださるように・・・。

 

 

2013年12月1日メッセージ

「天の見返りを見よ」

人に見せるために
 人前で善行をしないように気をつけなさい。
 そうでないと、天におられるあなたがたの父から、
 報いが受けられません。
                            マタイ6:1

■作家 曽野綾子さんの本「人間にとって成熟とは何か」
が良く売れております。カトリック信者でもある
曽野さんが、ある方の相談を聞かれたそうです。

ある方の近所に体の不自由なお年寄りがおられて、
買い物に行ってあげたり、支えになってあげたりといつも
気にかけて声をかけていたそうです。そのお年寄りの
同居の息子さんがおられたそうですが、それを見ても
挨拶もせず、お礼の一言も無く、いつも無愛想な
息子さんでした。 ある時、そのお年寄りが他界され
ました。お葬式に参列したその人は息子さんに挨拶し
ましたが、息子さんからは何の感謝の言葉も無く相変わらず
無愛想なままでした。この息子さんに腹が立って
どうしようも無く、この息子さんをどう思いますか?

と言う相談でした。

残念ですがこの方は損をしていると思います。
このお年寄りに善行をしたのは、お年寄りの事が心配で
思いやりを 持った故なのですから、それは素晴らしい事
なのです。決して動機は、息子さんに褒めてもらうために
したのでは無かったはずです。
勿論、息子さんから依頼されたわけでも無いのです。

それなのに、息子さんに見返りを要求しているなら全て
虚しいのです。結局、自分の善行の評価を求めること
になってしまっているのです。勿論、社会的には息子さん
の無礼を 見過ごすわけではありませんが大切なのは善行
を行っていながら、息子さんに腹を立てているこの方は
良心から外れていってしまっているのです。

■私自身も、昔、植木を手伝ってくれていた若い子に日頃の
感謝を込めて特別に美味しいみかんを送りました。しかし、
彼はいつまで経ってもみかんの事を何も言わないのです。
みかんの味の感想を聞きたかったのですが何も言わないので、
こちらから聞いてみました。そうしたら、彼はあまりみかんが
好きでは無かったのです。私が、彼に感謝をしたのに対して、
感想を言わないのでやきもきしていた事に恥ずかしくなりました。

■相手に喜んでもらおうとしたことが、
逆に思い煩いになることは愚な事です。

結局、良いことをした事で相手から良い評価を求めている。
自分の点数稼ぎを、知らず知らずの内に意識しているよう
なのです。人間関係を深めるために確かに贈り物は必要ですが、
見返りをその人に求めるのは本来の目的ではなく、
本当の良い心では無いという事です。

良いことを他人にする時、他人に知れること無くそっとする
ことは人からの見返りを求めてはいけないと言う事です。
右の手でした善行は左の手に見えないようにしなさいとあります。
自分自身の手ですら見えないようにしなさいと言ってます。

■良い行いをする時に人からでは無く神様からの報いが必ず
あると信じる信仰を持てば、決して人から何かを要求する
ことは無いのです。

誰からも報われなくても、神が報いてくださる事を信じる
事が信仰です。神の報いを信じることはご利益的なことではなく、
人からの誉れを得る事無く善行ができるに至る。と言うこと
なのです。 むしろイエス様は、「返礼の出来ない人に施しなさい
と言っておられます。

また、イエス様は「朽ちず錆ない天に宝を蓄えなさい。
と言われました。人は肉体の死後、天において見返りがあると
約束してくださっています。

人からでは無く、神の見返りを求めれば誰も見ていなくても
善行は楽しいものです。どんどん天国の家に宝が積まれます!

まずは、あなたも天国を保証してくださるイエス様の
約束を信じどうぞお受取りください。

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